【インターネットエッセイ】青い鳥に啄まれた青い春。
2016~2018辺り、異様なまでにインターネットに傾倒していた時期がある。某青い鳥SNSで狂ったように壊れた機械のように囀り続け、時間をただただ浪費し、現実への不平不満を垂れ流し社会に対し斜に構え続け……ええ、一体何だったんでしょうね、あの時期は。完璧なまでに完膚なきまでに時間の無駄。過ぎ去った時間は還付されないというのに、何かもっと他にやるべきことがあったんじゃないかと今更ながらに思うわけですよ、まあ。
しかし、「強くてニューゲーム」じゃないけれど、インターネットでのいや現実世界での振る舞いを学習し習得する上で、私のような社会不適合者にとって、あの無駄な褪せた青色みたいな偽りの青春もどきみたいな時間は、今にして思えば必要不可欠だった様な気がしなくもない。過激な発言で無駄にフォロワーを増やし、自分の通っている大学をこき下ろし、世相を切ったかのような益体もないブログ(本当にくだらない!)でいいねとかPVを稼ぎ曖昧な半値と二次元美少女をくり貫いた偶像アイコンで恰もネット上で「何者」かになったかのような気を見せる。本当に今にして思えば何故にしてあんな何もない空間へと吠えたてていたのか不思議で仕方がない。繰り返して言うが、時間は戻らないのに。
しかし、あの時の謎の皮をかぶった「私」が現実世界でも辛うじて踏みとどまれたのは、あの無際限に狂える虚構空間があったからなのかもしれない。もちろんそれは学生の身分のように期限付きで、いつかは褪せて擦り切れるように緩やかに消えていくものだったに違いはないわけだけれど、それだってあの時しか出来なかったことに違いはない。
だって20代半ばを超えてとか剰え30代近くなってもインターネットで〈紋切り型の〉〈流行りの乗った〉〈定型的な〉コミュニケーションしか取れないなんて悲惨を通り越して無惨でしかない。禁止カードだろ、とか、近視なのはあなたの人生観ですよ、とかね。無。それこそ本当に無。やはり、あの空費し続けていたようにも思えた、あの指先で間断なく流れてくるどうでもいい情報を躍起になって摂取していたあの時間は、必要……とは認めたくはないのだけれど、必然的に通過すべき儀礼のようなモノだったのかもしれない。本当に認めたくはないけど。
幸いにして私の場合、インターネット自分語り(過多な騙り)よりもサブカル方面に元々興味があったことも手伝って、作品の感想だとか素人評論だとかを垂れ流したり誰が読んでるかもわからない自作創作を垂れ流したりするようにシフトしていき、あの狂った認識がひずむ空間からはフェードアウトしていったわけだけれども、それでもあの青い鳥を見るたびに、どうしようもなく終わった時代への際限なき後悔とかに苛まれるわけで、今はどうでもよくなりつつある青い時代の希少性とかも身にしみて感じるわけです。
間違えることで人生を軌道修正していく。いつでも今からでもやり直せる。その時、その瞬間にしか出来ないことがある。それらは本当にそのとおりであるわけだけれども、それでも世の中にはどうしようもない出来事とか変えようのない不変で普遍な事実とかがいくらでもあるわけで、そういうものよりもネットでの時間を優先させてしまったことは、無益、としかいいようがないなあと思えてくるわけです。こうして過ぎ去ってしまえばね。
まあ、でも、あの異様な空間を共有していた同期たちのこと、案外、嫌いでもないよ。
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