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【2002~2022】ポケモン映画最高傑作『水の都の護神 ラティアスとラティオス』を20年ぶりに映画館で観てきたので「何故色褪せない名作なのか」を考えた

 いつまでも色褪せない名作というものがあります。

 時の流れや場所の移り変わり、自身の内面の変化や成長……あるいはもっとざっくばらんに「趣向の変化」とやらにさえも逆らい、自分の中でなかば伝説と化しているような……。

 想い出補正、と言ってしまえばそれまでかもしれない。しかし、なによりもその補正は、自分の中で幾分「特別な位置」を占める作品に冠せられる何よりもの栄誉なのではないのか。個人的な話をするのなら、そういった作品群を自分の裡に「糧」として少しでも蓄えたいと思っている。

 まあ、小難しい話は抜きにして、noteを書くのも久しぶりなので、『水の都の護神 ラティアスとラティオス』を20年ぶりに映画館で観てきた感想を、記憶が色褪せないうちに簡易にでも書き留めておこうと思う。一応視聴後にメモを取っているので、割かし書きやすいかもしれない。

 ここでひとつ強調しておきたいことは、「映画館で観てきた」という点だ。あとからDVD(そろそろ死語か?)などで観たのではなく、劇場で、つまりはリアルタイムで観た、ということだ。

 勿論ネットの各所でどうしようもない文章を拵えては悦に浸るどうしようもない捻くれ人間となってしまった私も20年前はちょっと変わってはいるものの純粋無垢な幼稚園生だったので、当時はさほど不仲ではなかった(と信じたい)両親に連れられ、吉〇寺の劇場みたいな外観の映画館で観た記憶があります。パンフレットも買ってもらった記憶が。(今思えば、幼いころ映画館で映画を観るのが何処となく怖かった記憶があるのですが、あの妙に薄暗い照明と、上映前の独特な雰囲気がそうさせていたのだと思われます)

 結論から言うと、20年も前なのに比較的に映画の内容を仔細に覚えていました。ラストシーンは勿論、今回見直して驚いたのが、物凄く細かい、本筋にはおおよそ関係のないシーンまでもを克明に覚えていて、なんなら「懐かしい」とまで思えた。これは驚異的でしょう。20年前に観た作品の記憶が、今となって観て改めて喚起される。まあ一度見ているから当然と言っては当然なのですが、それだけ自分の中で特別な位置を占めている作品なのだなと改めて実感しました。

 さて、御託は抜きにして、20年ぶりに観てきた感想と、何故これほどまでにこの作品は各所で「名作」と言われ、(上映当時は興収などもそこまで振るわなかったのにもかかわらず)歴代劇場版ポケモンの中で極めて特異な、伝説的地位を確保し、こたびの映画ポケモン25thの企画の一環として再上映されることとなったかについて個人的な見解を認めてみたいと思います。(長いよ。因みに、再上映されたのは三作で、他にジラーチとダークライが該当します)

 当然ながら、ネタバレ全開なので、まだ観ていない人は気を付けてください。

 では。


 まず、観ていて素直に想ったこととして、全体的な流れがとてもきれいなのです、この作品は。試しに簡易かつ超アバウトなあらすじ画像を製作したのでご覧ください。

文書3-1



 序盤のおとぎ話から始まり(このおとぎ話は、物語全体のあらましを予めなぞっています。作中作としてこれも秀逸)→レース→ラティアスとの出逢い→秘密の庭での交流→怪盗姉妹によるラティ兄の拉致→救出→そして街を襲う大津波、と畳みかけるようにラストまで展開が続きます。「動」と「静」の切り替えが巧みですし、何より序盤のレースや観光のシーンも無駄ではなく、後々の展開で重要となる小道具(ex.レース用ボート、古代ポケの化石)を出している。二重に説明するのを避け、すっきりと伝わります。

 特筆しておきたい、そして20年前の私もよく覚えていたのが、舞台となる水の都アルトマーレの描写です。前述したとおり、本作は滑らかでスピーディーな展開が続く物語ですが、合間の描写がとても巧みで、それでいてわざとらしくないのです。まるでアルトマーレという架空都市が実在するかのような、独特の空気感があります。

 街の住民の描写も印象的です。ベンチでロコンを撫でる老婆、水道でシャワーズに水をやるお姉さん(この直後にサトシとピカチュウはラティ妹とと出逢う)、空を飛ぶプテラを呆然と見上げる青年……。尺として登場シーンはほんの一瞬(サトシたちが街を彷徨う場面の途中に登場する)ですが、どれも強烈な印象を残します。街で生活する住民たちの息遣いが聞こえてきそうです。また、演出面についても。サトシがラティ妹に誘われ、アルトマーレの街を放浪するシーン。カメラワークが特徴的、というか、このシーンが異様なまでに印象に残るからこそこの作品は名作なのだと言い切ってしまってもいいくらいの出来栄えだと思います。

 初めて訪れた迷路のような都市を(舞台モデルは実際のベネチア)、謎めいた少女に誘われ、半ば白昼夢のような意識で彷徨う……。背景とbgmも本当に素晴らしい。カメラからサトシの姿を消し、視点のみにすることで、また、街をぐるりと回転させるカメラの効果で、わたしたち(視聴者)は街と一体化したような空間を覚え、実際に「水の都」を彷徨っているかのような感覚を覚えます。後述しますが、ラティ兄妹の特殊能力「ゆめうつし」もこの効果に一役買っています。ブラー効果のかかった、ぼやけた、淡く儚い画面構成も、雰囲気の醸成に買っていました。本当に素晴らしい。

 他にも、舞台を引き立てる小道具の多いこと。特産品の硝子はベネチアンガラスでしょうし、サンマルコ広場をモデルとしたであろうラティの像、運河を仕切るパリ―ナ、観光事業であるゴンドラ……。全然関係ないですが、某水の惑星漫画をも彷彿とさせる細部の作り込みです。語られないからこそ作り込みの好きのなさが大人になった視点から窺えます。

 舞台となるアルトマーレの細部まで拘りぬいた創り込み。これが印象的な映画に仕立て上げている立役者の一人と言っても過言ではないでしょう。

 更に、本作のキーパーソン、そして長年語り継がれてきたラストシーンの解釈の起点ともなる「カノン・ラティアス」について。

 角が立つのも承知で言いますが、彼女の存在が、この作品の「美少女ゲーム的雰囲気」……言ってしまえばオタク好みの雰囲気、を醸している気がします。けして恋愛的文脈ではないかと思いますが……。

 ラストのキスシーンの解釈(これについてはさんざん語られていることだし、公式の見解も出ていた感じがするので本記事では敢えてスルーさせていただきます)もそうですが、単純に、カノン≒ラティアスという図式は、ミステリにおける二重人格のような、言ってしまえばアンビバレンツな雰囲気を掻き立て、物語の多重的性格を強めます。

 カノン(ラティアス)との出逢いのシーンから始まり、庭のシーンに至るまで、サトシ及び視聴者はずっと「目の前の少女は誰なんだ?」という疑念を抱くことになります。それが先述したアルトマーレの摩訶不思議な世界観と絡み合い、またラティの正体ばれの神秘性にも繋がります。言ってしまえば、彼女の存在が、この登場人物の比較的少ない、小さな街での物語へと多重性を投げかけ、ファンタジーめいた幻想空間として演出しているといったことです。

 ゆめうつし、というラティ特有の特殊能力についても。作中で何度か挿入されるシーンで、ラティの観ている風景を他者にも見せられる(共有できる)という特殊能力ですが、これがまた多重性を生んでいます。観る者を更にメタ化し、視点を……ええと簡易に言えば、ファンタジーぽくなります。だがそれだけではなく、ラストでラティオスが観ている「地球」(美しい水の星)を写すことで、ほかならぬ私たちの住む世界との連続性をも担保している……。何度も言いますが、「静」と「動」、「現実」と「夢想」、「カノン」と「ラティアス」、アンビバレンツな多重性……その巧みな切り替え、写し込みこそが、この作品の魅力なのかなと思った次第であります。

 仕事疲れの疲労困憊の身体で観に行ったのですが、意外なほどに楽しめました。当時の気持ちを思い起こされるとともに、懐かしいだけではない時の流れの重みをひしひしと感じましたね。観て良かった。

 最後に、簡易にこの作品の魅力を纏めるのならば、

 (比較的)短い尺のなかで、美しい街並みを巧みな構成の中で魅せ、またアンビバレンツな舞台装置の数々が、淡く儚い雰囲気を醸し出し、その消え入りそうな美しさが私たちの忘却を堰き止めるから……

 とでもしておきましょうか……。全然伝えられていない気がする。









 美しい思い出は美しいまま眠らせておきましょう。ということでしょうか。 

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