Baths / Obsidian

LAビート・シーンの恐るべき才能による「漆黒の」第2章。

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 LAビート・シーンきってのアンファン・テリブル、バスことウィル・ウィーゼンフェルドが3年ぶりのセカンド・アルバムにおいてもいまだ恐るべき子どものままであったのは、ミューズの寵愛が過ぎたためであろうか。良識や凡庸さに絡めとられるという意味での成長は、彼にとって無縁である。かつて『セルリアン』においてウィーゼンフェルドが組み上げたビート・コンプレックスは、行き場を見つけられずに暴れまわる、思春期的なエネルギーそのものであるように思われた。ひとときとしてじっとしてはくれず、われわれの手をすり抜け、セルリアン=天上へと駆け上がるかと思えば一直線に滑降して暗い淵をのぞかせる、まるで14才の気難しさと奔放さとが化身した天使……筆者には彼自身がほとんどビートそのものに重なって見えた。あのデイデラスが惚れ込むのもむべなるかなである。

 しかし今作においてウィーゼンフェルドはその攻撃的な天衣無縫ぶりを少しあらため、エネルギーの矛先をある明確な対象に向けて定めている。繰り返し現れる神のモチーフ。創造と破壊、終末、死、そして無気力。“ラヴリー・ブラッドフロウ”が生命やその輪廻をおおらかに、そしてアニミズム的に描き出したのとはまるで異なる宗教観が、今作には強く表れている(同トラックについては本人が『もののけ姫』からの影響に言及している)。ビートは直截的に鈍重に、きらきらとしたサンプリングは地響きのようなノイズに姿を変えた。彼がしばらく患っていたことと関係しているのは間違いないが、筆者にはもうひとつ別の病のかたちが見える。それは若き魂に特有の病、破壊や死や傷や毒を求めてやまない、あのやっかいで輝かしい――「中二」の――病である。14才を10も過ぎているが、この天才はいま、ありったけの力と思いをそこに注いでいるかに見える。後ほど楽曲とともに、もう少し詳細に触れていこう。

 テレビの脚本家である父と画家の母とのあいだに生まれ育ったウィーゼンフェルド少年は、4才でピアノをはじめ、ギターはもちろん、コントラバスやヴィオラなどもひととおり習得するマルチ・インストゥルメンタリストでもあった。だが「それらを習いたかったのではなく、音楽をつくりたかった」彼は、12のときにピアノをやめ、コンピューターとMIDIキーボードを手に入れる。バスの物語が動き出す瞬間である。彼ははじめはポスト・フィータスと名乗り、のちにはジェオティックと名を変えてアンビエント作品を録りためた。一方で、変拍子ロックを得意とする3ピースのインスト・マス・ロック・バンドを組んでいたという経歴もある。ネフューズというバンドでベースを弾き、ライヴのやり方を学んだ。「バンドのほうがミステリアスなことができるしね。あの頃のことを思い出すと、うれしくてテンションあがっちゃうな。」と本人は述懐するが、彼のキャリアにロック寄りのバンド経験が含まれているのは示唆的である。いまでもその音の底にはクラシックやロックの記憶が沈んでいる。
 やがて彼は、シーンの重鎮のひとりであるデイデラスことアルフレッド・ダーリントンに見初められることになる。彼の尽力もあって、ウィーゼンフェルドは〈ロウ・エンド・セオリー〉のゲストDJとなり、のちに同クラブのレギュラー・パフォーマーとして活躍、名門〈アンチコン〉とのサインにいたる。おそらくこの出会いは彼がジェオティックと名乗っていたころのことだと思われるが、デビュー作『セルリアン』のどこをとっても、デイデラスが受けたはずのインパンクトを推し量ることができるだろう。テクニカルという言葉に収斂しない、その鮮やかで写生的なビート・メイクには、われわれもおおいに刺激を受けた。理知的な作品が多いシーンにあって彼のエモーションはひときわ目立ち、インディ・ロック系のリスナーからの注目も大きかった。じつに華やかなデビューである。〈アンチコン〉の新傾向を牽引する顔としても印象的で、メディアもリスナーも満場一致で喝采を贈ったことはまだ記憶に新しい。それが2010年のことである。
 その後、本作までのあいだには『セルリアン』以降の音源を中心としたコンピレーションが発表されている。2011年をツアーにあてて活動していた彼は、ライヴに足を運んでくれたファンへのエクスクルーシヴな音源集をつくりたいと考えたようだ。一連の作品は『ポップ・ミュージック/ファルス・B・サイズ』と名づけられ、日本盤が企画されるまではMP3のダウンロード形式オンリーで提供されていた。

 彼が体調を崩すのはこのあたりである。急病が伝えられ、療養のため2011年9月の来日公演は延期になった。その後の来日時のインタヴューで、「つぎはもっとダークな作品になるよ」と語っていたのをよく覚えているが、2012年はレコーディングと健康問題が絡み合ってすっかり参った1年であったという。全体を通してのコンセプトは「apathy(無関心・無気力)」。やはり疾病が原因となって、黒のイメージやペスト(黒死病)の蔓延を描いた中世の絵画に惹かれていったのだそうだ。意識的にライヴの数を減らし、生きたまま埋められていった人々の様子や、死そのもの、グロテスクなイメージに向かい合いながら、新作に時間を費やそうとした。「絶対に自分に対して不誠実であってはならない」というのは、彼の創作活動における信条である。よってこの混乱した期間の反映として今作の「ダークさ」があることは、けっして彼の減速や行き詰まりを意味しない。「暗いエモーションや雰囲気のなかにある独特のヴィジョンを吸収しようと思った」――そのためにはある種のポジティヴさは妨げとなった、と言うのである。

 しかり。ポジティヴさを妨げとして排除した、というのは本作にとってより本質的な説明である。もっと深刻な病気でさえ、いや、そうであるならまして、「寒さと死と悪しき魂のもとで安らぎを得る」だとか、「僕はいまだに死のうと思ってるんだ」というようなテーマを歌わないだろう(“ワースニング”)。この2枚めとなるフル・アルバムにおいて、彼は跳ね回るエネルギーとエモーションを抱え、あえてそうした不信心と滅びの思想のなかに頭から突っ込んでいったのである。何のためかと問われれば、ただ彼にはもてあますほどのエネルギーがあったからだとしか答えようがない。本来ならばセックス&ヴァイオレンスになりそうな力のかたまりが、彼にあってはすべてドラマチックな切なさと音楽に変換される。それが前作では天上に向けられたが、今作は地面の下だった。そういうアルバムではないだろうか。
“ワースニング”が象徴的だ。揺れる拍子でつぶやくようにつづられるヴァースに次ぎ、ほとんどインダストリアル的とも呼べる鉄槌のような6連符が展開される。激しいエモーションが渦巻き、悲劇性が立ち上がる。その上に薄絹のように重ねられるヴォーカルは哀切で、しかしどこか陶酔的でもある。暗く、重く、打ちひしがれていて、甘美。このしびれるような甘美をいまだ味わえるならば、あなたもまたいまだ若さの病のなかにいるということだ。つづく“マイアズマ・スカイ”は雨音のサンプリングからはじまるが、“レイン・スメル”の小雨感とは比較にならない本降りの音がきこえる。アナログ・シンセ風の丸みのある音、ひねりの少ないリズム・トラック、ゴールド・パンダなどを思わせる無邪気でポップなダンス・ナンバーだが、ここに降っているのは詞のとおり「自分をさらに傷つけるための雨」である。むしろ今作においてビートにシンプルさが生まれているのはそうした悲劇性を全面に押し出したためかもしれない。バケツの水をかぶるようにエモーションが土砂降りする。“オシュアリー”のように「運命」という言葉も数回出てくる。

だから、日本であれば『カゲロウデイズ』にイカれてしまっている世代に聴いてほしいのだ。やっていることはほとんど同じである。フライング・ロータスやデイデラスにつづく血統書つきの才能、ハドソン・モホークらに並ぶ新世代の筆頭。しかしそのバスが全霊をかけて患う若き病は、ビート・ジャンキーやIDMマニア、クラブ・リスナーたちではなく、「ブルーにこんがらがった」ベッドルームの青少年たちにこそふさわしい。『セルリアン』は歴史に残るが、今作は若いたくさんの胸にひっそりとインストールされるべきものである。文学や思想が「自意識」を正面から扱いにくくなってしまったいま、音や絵が、ポップカルチャーが、胸より下からそれを持ち上げはじめている。それが筆者の目に見える2012年から2013年初頭の風景だ。この地平にバスの姿が絡んでくることを、筆者は驚きと感心とともに見つめている。

さて、この点をリズム構築の観点からも補足したい。“オシュアリー”のハンマー・ビートにも顕著だが、“ノー・アイズ”の16ビート、“フェードラ”の疾走感溢れる8ビート、先にも触れたように本作ではとてもリニアな感覚のビートが採用されている。ビートがそのままメロディでもあり感情表現でもあるバスの音楽にとって、この変化は大きい。それが極まるのは“アース・デス”の鈍重なリズムである。ブラック・メタル、あるいはインダストリアル・ノイズの系譜を想起させる重低音にまみれて、鈍器を振り下ろすようにキックとスネアが挿入される。ヴォーカルは創造主に向かって自分を殺せと繰り返す。けっしてクールではないが、この曲は“ワースニング”に呼応する、本作中のハイライトのひとつであろう。
ピアノの存在感も増している。“アイアン・ワークス”“インコンパーチブル”など、主にアルバム中盤で恋を描くトラックに用いられる。いずれも前作の雰囲気を残す穏やかな、そして細かく錯綜するビート・メイクが特徴的な曲だ。「ピアノは最上の音楽的アイディアをくれると思う」と述べているが、“ノー・パスト・リヴズ”ではグリッチ・ノイズに絡んでときにコミカルに、ときに哀しげに鳴らされている。詞は暗いが、恋は彼にとって特別なものなのだろう。ピアノの上で彼のヴォーカルはもっとも心地よさげである。

そして終曲。まるでサッド・コアのようなギター・アンサンブルと多声的なコーラスで構成される“インター”を聴きながら思うのは、本作は、このラストを「キリエ」として、一気に冒頭へと逆走するミサ曲なのではないか、ということだ。無論モチーフも反転している。“アース・デス”は神の栄光をたたえる「グローリア」であろう。“ノー・アイズ”は、自分の目には光も愛も希望もない、自らの苦境のみを信じると歌うインモラルな「クレド」である。瘴気にみちた空への感謝「サンクトゥス」としての“マイアズマ・スカイ”、そして我が身を最悪の神への供物とする「アニュス・デイ」=“ワースニング”……こじつけとはいえ、このアイディアはおそらくそう的を外してはいないように感じられる。そしてこれだけの空想を許容するウィーゼンフェルドというアーティストのサイズに、再度うならされるのである。人類の歴史はもはやチルアウトの方向にしか進まないのかと思っていたが、個々の小さな人生には、まだまだバスのような激しさと潤いとが必要なのだ。そのために今宵、ベッドルームで逆回転のミサを執り行おう。あなたも。
                               橋元優歩

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