[ためし読み]『神々の時代』「訳者解説」
ベトナム国内外の知識人から評価の高いホアン・ミン・トゥオンが著した、ベトナム初の大河小説ともいえる本作。ベトナムで出版された当時、国内に大きな衝撃をもたらし、刊行後すぐに回収処分を受けたにもかかわらず、多くの読者に読まれ大反響を呼びました。
フランス植民地時代、ベトナム戦争からその後にかけて激動の時代を、与えられた歴史としてではなく、自分たちの歴史として描いた意欲作。ベトナムの歴史や社会を知ることもできる一冊です。
作品の時代背景や作家について紹介した「訳者解説」を公開します。
【目次】
第一部 風塵
阮其園/クック/多難な情事/革命の詩人/歯ぎしりをして「同」の字を折る/出迎える五つの城門/急な結婚/非業の死/人民の歌声/佳品と佳人/万丈の高い頂/招かざる客/母の苦悩/チュオンソン山脈を切り開く
第二部 桑田変じて滄海となる
一つの山河/さすらう子供/人生の断片/局外の人/K27/時化の日々/父を捜す/戻ってきた人/法事/中途半端/金と紙/約束の地/東西の対話/兄弟は手足の如し/ベトナムの母
あとがき
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訳者解説
ホアン・ミン・トゥオン著『神々の時代』は、ベトナム作家協会出版社から二〇〇八年八月に刊行された。この小説はベトナム国内に大きな衝撃をもって受け止められ、文芸評論家のフオン・ゴックは「『神々の時代』は、二〇〇八年におけるベトナム散文の爆発か」と述べ、教育出版社の編集員だったグエン・ヴィエット・フンは「最初に草稿を読んだ人間として、私はショックを受けた。数年前なら、刊行しようとする出版社を見つけるのは難しかったのではないか」と語った。しかしながら本書は刊行後すぐに、出版規則に違反したという理由で、情報・通信省出版局から回収命令が出され、店頭から姿を消した。それにもかかわらず、本書は闇市場やインターネット上に出回り、多くの読者に広く読まれ、大きな反響を呼んだ。
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ホアン・ミン・トゥオンは、一九四八年、ベトナム北部の首都ハノイの近郊農村(旧ハドン、現在のハノイ市ウンホア県フオントゥー社)に生まれた。ハノイ師範大学で地理学を専攻し、卒業後は当時のヴェトバック自治区で教鞭をとり、また、一九七〇〜七七年には当地の教育局にも勤務した。続く一九七七〜八八年は『人民の教員』紙の記者となり、八八年からは『文芸』紙の編集員を務めた。
作家としての彼は、一九七九年に初めての単著となる長編小説『冬春米の田』を出して以来、これまで二十冊以上の長編小説・短編集・ルポルタージュを発表し、『川の端』(一九八一年)で教育省の文学賞、『違う路程にいる人々』(一九八八年)でベトナム労働総同盟の労働者文学賞、『盗賊の水火』(一九九六年)でベトナム作家協会賞を受賞している。『神々の時代』は十三番目の長編小説であり、この作品により海外でもその名前が広く知られるようになった。二〇一四年にはフランス語訳が、一五年には韓国語訳が出版され、まもなく中国語訳も出ると聞いている。
ホアン・ミン・トゥオンは『神々の時代』刊行後も旺盛な文筆活動を続け、二〇一三年末には長編歴史小説『元気』を完成させている。この作品は知識出版社から刊行する予定であったが、出版社が小説を刊行する権限がないなどとして、当局から出版停止命令を受けてしまった。この小説は、『神々の時代』にも登場するグエン・チャイの茘枝園事件を題材に、権力者と相克関係にあるベトナム知識人の姿を描いたものであった。出版停止命令を受けたこの小説は国内では出版できず、結局、アメリカで出版されることとなった。
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さて、本書『神々の時代』は、ベトナム北部の紅河デルタ農村地方において、科挙合格者を輩出した名門グエン・キー一族が辿った運命を通して、二十世紀後半のベトナムの歴史をつづった物語である。二十世紀後半は、かのベトナム戦争を含め、ベトナムの歴史において大きな変動のあった時代であった。『神々の時代』の内容に関連する事柄を中心に、その歴史をごく搔い摘んで辿ってみよう。
ベトナムがフランス植民地下にあった一九四五年、八月革命によってホー・チ・ミン[一八九〇〜一九六九]率いるベトミン(ベトナム独立同盟)を中心とするベトナム民主共和国政権が樹立され、同政権はフランスからの独立を宣言した。しかし、再植民地化を狙うフランスとの間に抗仏戦争(第一次インドシナ戦争、一九四六〜五四年)が勃発する。ベトナム民主共和国政府は、中国国境に近い山間部のヴェトバック地方に疎開して抗戦を続け、一九五四年にディエンビエンフーの戦いに勝利し、同年十月、ハノイに凱旋する。そして同年七月のジュネーブ協定により、北緯十七度線に沿ったベンハイ川沿いを軍事境界線としてベトナムは南北に分断され、南にはゴー・ディン・ジェム[一九〇一〜六三]による政権が樹立された。この一九五四年から五五年にかけては、北から南へ、あるいは南から北へと、自分の帰属する国家を求めて多数の人が国内で移住した。北から南に移住した人は約百万人にのぼり(そのうち約八十万人はカトリック信徒であった)、逆に南から北に「集結」した人は十八万人余りであったといわれる。
ベトナム国内では、ベトナム戦争の時期は一九五四〜七五年だとされている。一九五四〜六〇年は政治的闘争を中心にゴー・ディン・ジェム体制に闘争する時期、一九六一〜六五年は米特殊部隊の派遣などによる「特殊戦争」の時期、一九六五〜六八年は本格的な米軍の投入による限定戦争の「局地戦争」の時期、一九六九〜七三年は「戦争のベトナム化」「戦争のインドシナ化」の時期、一九七三〜七五年は南部の完全解放へ向けての時期である。この時期、北ベトナムでは社会主義建設に向けた動きと「抗米救国抗戦」が共に進められていった。社会主義の建設という面では、一九五〇年代半ばから土地改革や農業集団化、また商工業の社会主義改造が実施され、六〇年代に入ると農民の大半は高級農業合作社に属するようになった。一方、ベトナム労働党(現在のベトナム共産党)は一九五九年、政治局一五号決議で南を武力によって解放することを決定し、チュオンソン山脈を切り開いて、南への補給路となるホーチミン・ルートの建設に着手した。翌六〇年には、南ベトナム解放民族戦線が結成され、一九六一年初めにはベトナム労働党の南部中央局とベトナム南部解放軍が設立された。こうした状況のなか、アメリカが一九六五年から大規模な軍事介入を行い、地上軍の本格的な投入や「北爆」が開始された。
一九六五年から六七年にかけて、戦闘はエスカレーションしていく。一九六八年のテト攻勢により戦局は転換し、アメリカは和平交渉による解決をはかるようになるが、一九七二年のイースター攻勢で解放軍が南への攻勢を強め、中部のクアンチなどで激戦が繰り広げられた。一九七三年のパリ協定によりアメリカ軍はベトナムから撤退し、二年後の一九七五年四月三十日には南ベトナムの首都サイゴンが陥落、北ベトナム側の勝利でベトナム戦争は終結する。
ベトナム戦争終結の翌年には南北が統一され、現在のベトナム社会主義共和国が成立した。旧南ベトナム政府や軍の関係者達は再教育キャンプに送られ、南ベトナムの社会主義化が本格化していく。こうした状況のなか、華僑への締め付けが厳しくなると二百万人ともいわれる人々がベトナムを出国し、そのうちの多くが「ボートピープル」として国外に脱出した。その動きは一九七八年頃から活発化し、翌七九年に最高潮を迎え、一九九〇年代初頭まで続いた。国連難民高等弁務官事務所の統計によれば、一九七五年から一九九七年の間に、約八十四万人のベトナム人が東南アジアや香港の難民キャンプに収容されているが、その多くは「ボートピープル」である(約四万人が陸上経由でタイに入国した)。こうしたベトナム難民の定住先はアメリカが最も多く、全体のほぼ半数を占めている。
ベトナム戦争が終結した直後から、カンボジアのポル・ポト軍との衝突が起きていたが、一九七八年末にベトナム軍がカンボジアに侵攻してポル・ポト政権を倒し、カンボジアに親ベトナム政権を樹立する。その後、ベトナムは一九八九年までカンボジアに軍隊を駐留させ、軍事的に泥沼の状況を生むこととなる。これにより、ベトナムは西側諸国から経済制裁を受け、経済的にも大きな痛手を受けた。ポル・ポト政権と同盟関係にあった中国はベトナムを「懲罰」すべく、一九七九年二月から三月にベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発する。この戦争は八〇年代に入っても続き、一九七〇年代末から八〇年代前半にかけて、ベトナムは厳しい経済的苦境に追い込まれた。
この経済的苦境から脱すべく、一九八六年に採択されたのがドイモイ(刷新)政策であった。それまでの中央指令型の計画経済を改め、市場メカニズムを導入した社会主義経済が目指された。配給制度を廃止し、西側諸国を含めた外資の積極的な導入が図られた。文芸の分野でも、一九八七年に文芸政策の見直しがされ、翌八八年にかけて従来の文芸の在り方を見直し克服しようとする論考や文学作品が次々と登場した。しかし、一九八九年一一月のベルリンの壁崩壊や、一九九一年のソ連崩壊による社会主義圏の解体により、再び思想的な引き締めが行われ、ベトナムは社会主義体制の堅持を主張し、一九九一年に中国との国交正常化を果たす。西側諸国の経済制裁によってベトナムでは経済的苦境が続いたが、一九九一年にカンボジアに和平がもたらされ、経済制裁が解かれると経済援助や直接投資が入ってベトナム経済は発展の軌道に乗り、一九九五年には、アメリカとの国交関係が正常化された。このように、一九九〇年代半ばから外資の増加によって経済が発展する一方で、政府の幹部や役人の腐敗・汚職も増大していき、ベトナム国内では経済格差やイデオロギーの空虚化(信念危機)や人々の道徳的劣化(似非道徳化)が問題化されるようになる。
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では、本書について戻ろう。『神々の時代』は、グエン・キー一族三世代の生き様を通して、幾多の凄惨な戦争を経た現代ベトナム社会の変動に満ちた歴史が描かれている。父親のフック、長男のコイ、次男のヴィー、三男のヴォン、四男で養子のクック、孫のレ・キー・チュー、チエン・トン・ニャットおよびその妻子、それぞれの異なった人生行路を描きながら、土地改革の誤謬、「人文佳品」グループや「現代修正主義者」に代表される文学者や知識人層に対する弾圧、南部解放が与えた余波、民族和解の問題など、ベトナム社会の核心的問題に触れられている。
父親のフックは土地改革の結果、大きな不幸に見舞われる。彼はベトナムで最後の科挙世代の儒学者である。ベトナムにおいて科挙は十一世紀に導入され、儒学者層を形成してきたが、一九一九年を最後に廃止された。フックはこの最後の科挙の郷試[科挙には郷試、会試、廷試の三段階あった]に合格したものの、官職に就くことはなかった。彼のような在村の儒学者は伝統的に漢学教師となり、漢方医や占い師として活躍していた。このような儒学者は師弟や同門など人的ネットワークを持っており、ベトナムの文化活動や政治活動において極めて重要な役割を担っていた。フックの長男コイのように、革命幹部の多くは儒学者の子弟であった。
一九四五年の八月革命以後、フックは二重スパイとしてベトミンに協力する。彼は村の名士ではあるものの、大地主ではなかったが、土地改革の対象となる。土地改革とは、地主・富農の土地を貧農・雇農に再分配して多くの農民の支持を獲得し、売国奴や反革命者を排除することを目的としていた。本格的な改革の前段階として実験期が一九五三年十二月から始められ、一九五六年までに第一波から第五波までが実施された。土地改革では「地主」をつるし上げて糾弾する「闘訴」が行なわれた。本書では、フックの仲間達が地主という理由で「闘訴」され、かつてベトミンに協力したのにもかかわらず処刑されてしまう。さらにフックも養子のクックから「闘訴」され、自殺に追い込まれる。このように本書では、土地改革隊の横暴により、かつてのベトミンの協力者や、実際には「地主」ではなかった多数の無実の人々が「闘訴」で処刑された事実が浮き彫りにされている。
土地改革の否定的側面を描いた小説としては、ヴー・バオ『結婚直前』(一九五七年)、ズオン・トゥー・フオン『虚構の楽園』(一九八八年。邦訳は加藤栄訳、段々社、一九九四年)、ゴー・ゴック・ボイ『悪夢』(一九九〇年)、トー・ホアイ『他の三人』(二〇〇六年)などが有名だが、本書もこれらに連なる作品だといえよう。二〇一四年九月、ハノイにある歴史博物館が初めて土地改革に関する展示を開催したが、一面的だとの批判が相次ぎ、わずか三日で中止せざるをえなかったことは、土地改革から六十年余りが経つものの、ベトナム社会がまだその深い傷跡を引きずっていることを示していよう。
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本作に登場する次男で詩人のヴィーは、抗仏戦争中に彗星のごとく登場した花形詩人だったが、「人文佳品」グループ、「現代修正主義者」の一味だとして文筆活動を拒まれ、再教育キャンプに勾留されるなどの迫害を受ける。ヴィーはその後、「局外者」としての人生を余儀なくされていく。ここで登場する「人文佳品」グループとは、一九五六年に創刊された雑誌『人文』・新聞『佳品』を舞台に言論活動を行なったファン・コイ、チャン・ザン、ホアン・カム、フン・クアン、レ・ダット、チャン・ドゥック・タオ[『言語と意識の起源』(花崎皋平訳、岩波現代選書、一九七九年)の著者]などの知識人と文学者のグループで、彼らは文学や文化におけるベトナム労働党の指導を否定し、自由・民主のための闘争を呼びかけた。このような動きに危機感を抱いた党は、一九五六年末に『人文』『佳品』を発行停止にしてグループに属する人々の文筆活動を制限し、再教育キャンプに勾留するなどし、中にはトゥイ・アンやグエン・ヒュウ・ダンのように十年余り勾留された人もいた。彼らはドイモイ以降、ようやく名誉回復されることとなる。この事件は、知識人や文学者・芸術家に対する党の統制を強める上で画期的な事件であった。こうした政治と文学、知識人と権力者の緊張した関係、また知識人や文学者の果たすべき社会的責務といった問題は、著者ホアン・ミン・トゥオンの大きな文学的テーマとなっている。
ヴィーはまた「現代修正主義者」だともされた。一九五〇年代末から、ソ連では米ソ間の緊張緩和を目指す平和共存政策をフルシチョフ[一八九四〜一九七一]が打ち出し、当時のソ連や東欧に留学していたベトナム人の中には、このような「修正主義」の思想的影響を受ける人もいた。本書でも、ソ連のいわゆる「修正主義」の映画の表題が幾度か登場し、当時、北ベトナ
ムの人々に影響を与えていたことが窺える。ベトナム労働党は、一九五九年に南ベトナムの武力解放を目指すと決定していたが、党内は必ずしも一枚岩ではなかった。一九六〇年代に入ると、中国もソ連の「修正主義」批判を展開するようになり、ベトナムでは一九六二年前後から、軍事技術者を除いてソ連への留学が控えられるようになる。さらに一九六三年から六四年には「反修正主義」のキャンペーンが繰り広げられ、ソ連留学者の中には帰国させられた人もいた。このキャンペーンを通して、主戦派のレ・ズアン書記長らが党内の実権を握り、一九六三年十二月の第九回中央委員会総会で南部の武力解放が最終的に承認された。この後、ホー・チ・ミン主席やヴォー・グエン・ザップ国防相は声望は保ったものの、実権を失っていったといわれる。その後、一九六四年にブレジネフ[一九〇七〜八二]がソ連の最高指導者に就任するとソ越関係は改善し、大量の援助が供与されるようになる。しかし、ベトナム戦争の転換点となる一九六八年のテト攻勢の前年にも「修正主義者」への取り締まりが強化され、高級軍人を含め多数の人が処分された。
この事件は党と国家の高級幹部が多く関係する大きな事件であったにもかかわらず、ベトナム国内の公刊文献ではあまり言及されていない。文学作品でも同様で、この事件によって長く勾留されていた文学者のヴー・トゥー・ヒエンの『日中の闇夜』(一九九七年)は、事件の貴重な証言を残しているがアメリカで出版され、同じくブイ・ゴック・タンの勾留体験を綴った小説『二〇〇〇年に語る物語』(二〇〇〇年)はベトナム国内で発禁処分となっている。その意味で『神々の時代』はタブーを破る斬新で大胆な内容を盛り込んだ小説だといえる。
斬新という面では、小説の主要人物として、ジュネーブ協定後に南に移住し、さらにベトナム戦争終結後に「ボートピープル」となってアメリカに亡命した人物、三男のヴォンが登場することも見逃せない。管見の限りでは、ベトナム国内で刊行された小説でここまで詳細に「ボートピープル」を描いた作品はない。ヴォンを通して見た旧南ベトナム社会は、暗黒一色だけの社会だとはされていない。また、ベトナム戦争終結後の彼と彼の家族の気持ちを描くことによって、北によって「征圧」された南の人々の感情も汲み取られている。本書では、亡命者は反革命者や非愛国者ばかりではないことが示され、南部の開拓史に功績のあった阮氏や阮朝に対する歴史的評価もなされている。
次に、四男で養子のクックはずっとドン村に残り、農民として家を守ってきた。『神々の時代』ではドン村が抗仏戦争、土地改革、農業合作社化、北爆、請負制の導入、ドイモイ、新経済区への集団移住などめまぐるしい変遷を経てきたこと、そしてこのような変化に翻弄されてきたクックの人生が描かれている。著者のホアン・ミン・トゥオンは農村を描くことに定評のある作家だが、彼はあるインタビューの中で、これまでの作品の中で、『盗賊の水火』(一九八二年)、『嵐の後の田畑』(二〇〇〇年)と『神々の時代』の三作品が自信作だと述べている(『盗賊の水火』『嵐の後の田畑』の二作品は合わせて後年、『大地の家譜』となる)。『盗賊の水火』では、八〇年代初頭の北部デルタ農村の様子が書かれている。作品の執筆時は北部の農民が最も苦しかった時期であり、農民がもぐりの請負をしなければならない実態が描かれていたため、小説はなかなか出版されなかった。当時は、こっそりと請負制を導入したヴィンフー省のキム・ゴック省党委書記が処罰される時代であった。ドイモイ政策採択から約十年後の一九九六年にようやく小説は出版され、その翌年、ベトナム作家協会賞を受賞した。このように農村描写に巧みな著者が『神々の時代』で描くのは、土地改革後の農村の階層変化、ベトナム戦争中の「銃後」農村の男女関係、バオカップ(国家丸抱え)時代の農業合作社幹部の待遇、戦後のもぐり請負制実施、農業合作社の衰退と集団移住の流行などの詳細な様子である。
その他、本書では、レ・キー・チュー、チエン・トン・ニャットなど第三世代の人物を通して、ドイモイ以降の国際経済への参入や「赤い資本家」の実態が描かれている。また女性達では、カムがいわばこの小説の影の主人公となっており、八月革命から抗仏戦争までの革命運動の瑞々しい理想と、エロチックなまでの生命力の横溢を象徴しており、ベトナム戦争以降、彼女は母性の象徴ともなっている。また、キエムとその母や弟は、ブルジョア家族が北ベトナムで辿った運命を体現し、ラーは少数民族出身で従順な革命幹部の妻であると共に、配給制度下で富裕化した商業幹部の典型例を示している。
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二〇〇八年に、ホアン・ミン・トゥオン『神々の時代』と、ズオン・フオン『九層の空の下で』がベトナムで出版されたことはベトナムの戦争文学史上、画期的なことだった。この二つの小説は、かつての南ベトナムの人々の戦争体験も含めた、ベトナムの二十世紀後半を描いたという点で、ベトナム国内で初めて登場した大河小説といえる。作品の特徴として、一九九一年に相次いで登場した、バオ・ニン『戦争の悲しみ』(邦訳には井川一久訳、池澤夏樹個人編集世界文学全集 第一集第六巻、河出書房新社、二〇〇八年などがある)、ズオン・フオン『夫なき水場』などの戦争文学の名作と比べると、大きな歴史的展開の中で立体的に戦争が描かれるようになっている。
『神々の時代』についていえば、先述したように、戦争遂行の陰画としての「現代修正主義者」への弾圧、性の抑圧や権力ある者への特別待遇などのベトナム戦争中の北部「銃後」社会の否定的現象、混血児で残虐な軍人チュオン・フィエンが作品内で体現するような同胞同士が殺し合うという「内戦」性、「解放」後の大量の「ボートピープル」の国外脱出などが描かれている。作品内では、直接的な戦闘場面がそれほど描かれていないものの、戦争文学の一つとして数えられるのもうなずける。現代ベトナムの著名な文学研究者フォン・レーも、著書『現代ベトナム文学』(社会科学出版社、二〇一四年)の戦争文学と農村の項で本書を採り上げている。
ただ、『神々の時代』では冷戦期のソ連との複雑な関係や、ベトナム戦争後のアメリカとの関係改善についてはかなり詳しく書き込まれているのに対し、現代中国との関係についてはあまり触れられていない。とりわけ中越戦争(一九七九年二〜三月)については扱われていないといってよい。中越戦争を扱ったものとしてはグエン・ビン・フオン『上がる車、下がる車』(二〇一二年)などがあるが、これはベトナム本国ではなく、最初にアメリカで出版されている(その後、二〇一四年に『われわれと彼ら』とタイトルを変え、国内でも出版される)。中越戦争とカンボジア戦争は、いまだに現在のベトナム文学に残るタブーとなっているのである。
二〇一六年三月
今井昭夫
【著者紹介】
ホアン・ミン・トゥオン
1948年、ベトナムの農村ハドン(現在のハノイ市ウンホア県フオントゥー社)に生まれる。ハノイ師範大学で地理学を修めた後、当時のヴェトバック自治区で教鞭をとる。また、当地の教育局に勤務した後、1970年代後半から新聞の記者や編集員を務める。この頃より作家活動を開始し、1979年に初めての長編小説『冬春米の田』を刊行して以来、これまで20冊以上の著作を発表し、ベトナム国内で高い評価を受けている。2008年に刊行された『神々の時代』(ベトナム作家協会出版社)は、2014年にはフランス語訳が、翌15年には韓国語訳が出版されている。
【訳者紹介】
今井昭夫 いまい・あきお
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。専門はベトナム地域研究、ベトナム近現代史。著書に『戦争・災害と近代東アジアの民衆宗教』(共著、有志舎、2014)、『記憶の地層を掘る アジアの植民地支配と戦争の語り方』(共編著、御茶の水書房、2010)、『現代ベトナムを知るための60章』(共編著、明石書店、2004)などがある。
【書誌情報】
物語の島 アジア『神々の時代』
[著]ホアン・ミン・トゥオン [訳]今井昭夫
[判・頁]四六変型判・並製・574頁
[本体]4000円+税
[ISBN]978-4-904575-55-0 C0097
[出版年月日]2016年3月31日発売
[出版社]東京外国語大学出版会
※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。