プチプーチンたちと、俺様憲法第九条について

ついに、数ヶ月にわたり恐れられていた、ロシアによるウクライナ侵略の火蓋が切って落とされた。心ある有識者たちは、この非道な行いに対して、次々と非難の声を上げている。

まっとうな国際情勢の分析や、戦後秩序への挑戦といった、大文字のテーマについて、数多くの大学の先生やジャーナリスト、あるいはTwitter論客たちにお任せしたい。ここで取り上げるのは、プーチン氏の繰り出した理屈についてである。

彼の、ロシア文学を彷彿とさせる、長々とした演説をかいつまんでみると

「我々は、ウクライナチスと、それを陰で操るNATO・米国の侵略から自国を守らねばならない」

という明白な論理が浮き彫りになる。

いったい、何のことを言っているのだろうか?彼の統治下でない国に住む、大多数の市民たちにとって、理解不能な話に過ぎない。どこをどう見てもウクライナ軍にはロシアに侵攻するだけの規模も、その理由も無く、ウクライナチスとして揶揄される怪しげな軍団(アゾフ大隊とか)は確かに存在するが、ウクライナの国政を左右するような勢力では決して無かったのだ。それら全てを、完全に武装解除せよと主張する。

そして、忘れてはならないこと、それは

プーチン氏にはまっとうな理由を語る必要が無かった

ということだろう。

彼には、選挙結果を自由自在に書き換えることも、気に入らない人間にポロニウムを盛ることも、あるいは批判的なジャーナリストを外国の代理人、要するに敵国のスパイとして、国ぐるみのいじめのターゲットにすることもできる。

命令次第で、何十万もの大軍が、戦車やミサイル、戦闘機に軍艦を並べて動き出す。もちろん、手元にかがやく赤黒いボタンは、核ミサイルの発射スイッチだ。おおよそ地球上で、彼を超える権力者なんて、アメリカの大統領ぐらいしかいないだろう。

話を、日本の日常に引き戻そう。

ここに、奇書と呼ばれる本に数えられるであろう、一冊の本がある。体罰教師の聖典として名高い「見て見ぬふりか、ゲンコツか」である。

既に故人となられた、著者の田中國明氏は、かつて体罰のオンパレードを奏でることで、バスケット部の強豪チームを作り出した。そして、その方針を一切悪びれること無く、どこまでも同じ話を繰り返し、体罰教育の重要性を語ったこの著作は、現代でも一定の黒光りを放っている。

語られている内容は、著者の自説の無限リピートだけでなく、彼に育成されたあまたの生徒たちの感謝の応援歌でもある。「水を飲むなと言われてしごかれたあと、ぞうきんを洗うバケツの水をこっそり飲んで旨かった」など、常軌を逸するという日本語がこれ以上無いまでに当てはまる、生々しい体験談で彩られている。

何故、田中氏は、そこまで恐れられ、敬われたのか。無論、腕力も相当なものだったかもしれないが、最も重要なことは、

彼が理屈にかなっていなかった

ということだろう。理屈は、しょせんは弱者の戯言に過ぎない。成果を上げつつ、理屈が入り込むスペースに理不尽を差し込んだ人間。それこそが、本質的な権力者なのだ。

この世にあまた存在する、理不尽なワンマン社長や、パワハラ教授、あるいは店長といった中間管理職にも共通する点。それは「指示が理不尽」な点である。要するに彼らは、しもべたちに何かを説得、理解させようとは一切考えていない。今やるべきと判断したことを、その理由を説明すること無く、逆に強要することで、その地位を築き上げたのだ。

今ここに、このタイプの指導者達を「プチプーチン」と定義したい

逆に、あらゆる指示に、合理的な理由付けを行い、部下の理解を深めさせることで、自身の向けたい目標に導くタイプの指導者も存在する。いまどきの、理想のマネージャーと言われる人間である。このタイプの、相互の納得と信頼を積み重ねるタイプのリーダーシップは、もちろんながら、社会を動かす重要な要素である。

しかしながら、そのタイプの人間からは、属人性が徹底的に排除されている。別にいつも正しいことをいう部長でなくとも、同じことをいえる別の人が部長をやれば、その立場に収まることができるのだ。

軟弱な理屈ではなく、その人である必要がある

プチプーチンは、容易に取り替えることができない。田中氏が現役監督だった、昭和末期〜平成初期の高校生であれば、いきなりどこかのおっさんに殴られれば、たちまち殴り返したであろうし、少なくとも警察を呼んだだろう。学校の教師とて、生徒たちには逃げるという手段もあったのだ。「田中先生」だからこそついて行く、という理不尽なパワーが無ければ、彼は単なる暴力教師として、どこかで解雇されていたに違いない。

理屈を売りにする、コンサル業界において、彼らの世界のプチプーチン・パートナーズの話題がTwitterで流れ続け、同じく国家を動かすロジックを考えるのが仕事である、官僚たちの世界にも、パワハラ官僚、プチプーチン・マスターズたちの話題が尽きないことは、今では有名な話であろう。

話を、世界地図に戻そう

プーチン氏は、今や皇帝にならんという勢いで、大勢の人々を抑圧し、彼の信ずる帝国を作り始めた。それ以上に大軍を動員可能で、あまたの核ミサイルを持っている人は、現在の地球に1人だけ、バイデン氏が存在するが、彼はおおよそ「正当な理屈と理性」を訴えるタイプの指導者である。仮に今日、心臓発作で死んだとして、明日からハリス副大統領が同じ理屈で、同じように統治すれば、同じアウトプットが出てくるのだろう。

ロシア皇帝、ウラジミール一世

ふざけた陰謀論などでなく、トランプ氏が今の大統領であったのならどうなったのか。プーチン氏とプチプーチンが、仲良くやれる保証は無い、しかしながら、彼らはどうやら相互にリスペクトしているようだ。

プチプーチンたちに、共通する点があるとすれば、おおよそ、およびもつきそうもない、遠大な未来を描いていることだろう。ロシア帝国の復活、偉大なアメリカの復活、日本の生産性を根底から引き上げる、世界から飢餓をなくす、などなどである。

どれだけ低賃金で、労働者をこきつかっていたとしても、「世界から飢餓をなくそう」という高尚な目標を掲げることはできる。

そこで、私は、世界のプチプーチンたちに、「憲法第九条」を推奨したい

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

日本国憲法第九条

そう、あらゆる敵対者が、武装を放棄し、武力の行使や威嚇をやめること、それは素晴らしい理想に他ならないだろう。プチプーチンたちも、きっと敵対者の武装解除には賛成するだろう。ご本尊のプーチン本人も、また、ウクライナの憲法に第九条を差し込めば、大変満足されるに違いない。

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