見出し画像

またここに戻ってきた時に

『一年後の自分へ』
節目を迎えるごとに書くには丁度いいテーマです。
私の通う学校の国語科の教諭は毎年新しい年度を迎えるごとに
生徒にその手紙を書くよう指示します。
その手紙が今日返却されました。
正直書いたことすら忘れていたのですが読んでみると感じるものもあったので
ここに残しておこうと思います。

一年前の自分は自分が想像しているよりも幼くて
でもその幼さを隠し通したい背伸びが余計幼さを増していて
なんだかとても恥ずかしかったです。

なんだか一年前の自分は素直になることをどこか恐れているようで
あまり自分のことを書いてはくれいません。
当時すきだったアーティストのことがほとんどで
あとは助言にもならない助言ばかりでした。

その中でも託されていること、素直に書かれていることが
みっつだけありました。

ひとつ目、逢いたい人に逢うこと。
だそうです。
『逢いたい人に逢えたのか』と振り返ると、
この願いは叶えてあげられませんでした。
『逢いたい』と望んで逢えた人は見つからなかったけれど、
『出逢ってしまった人』は数えられない程いるでしょう。
これはもちろんいい意味です、幸せなことです。
吸い寄せられるように出逢った人が今の私の周りにはたくさんいます。

ふたつ目、大切な人を死ぬ気で守ること。
なんなんでしょうね、こういう記憶って些細なこと過ぎて
あまり明確に覚えていないんですけど、
『大切な人を大切として失っていない』
のできっと望み通りと言ってくれるでしょう。
自己犠牲の精神は弁えているので
守るという面に関しては、ある程度大丈夫だと思います。

みっつ目、不器用なりに、馬鹿なりに頑張ること。
見透かされている感じが絶妙に憎いのですが、反論が思い浮かびません。
うまく言い表せないのですが、不器用なりに、馬鹿なりに、
貪欲に壁に当たりにいった一年でした。
人前で声すら発せられなかった自分が学校代表で弁論を読みにいったり、
学級委員になってみたり、学生指揮を務めたり、
それこそこの活動を始めたり、『愛すること』に向き合ったり。
数え切れない程、戦いました。
その過程で、不器用さ能率の悪さに苦しめられることも
数え切れない程あります。
でも全部最後形を残して戦い斬りました。

自分が想像しているより、
良くも悪くも想像から離れた一年だったけれど
確実に変われた一年。
きっとこの手紙が無かったら気づかなかった変化。

一年を短いと捉えるか、長いと捉えるかはそれぞれだけどそれ以上に
過去に蔑まれない自分でいたことを心底嬉しく思います。
今に呪われなくてよかったです。
来年は、今の自分に胸を張れるような綴音でいたいです。
だから足掻いて、一喜一憂して、逃げずに戦いたい。
一年幼い自分に恥と思われるような自分にはなりたくない。

一年経った自分に恥ずかしいと思われてしまうことは
当たり前というか仕方がないと思うんです。
だって一年幼いから。
逆に一年前の方がしっかりしていたらそれはそれで問題だと
私自身感じてしまうと思います。
でも、恥ずかしいと思われても
「当時はこう考えてたんだなぁ」と
振り返った時の納得点になればそれは生きると思います。
もし、綴音の活動に恥ずかしさを覚えたとして、
その感情自体は自然のことだけど、
『恥』だと思い『汚点』と捉えて欲しくないんです。
だからそのためにも綴音として活動を全うすること
それが今の私が、一年後に対してできること。

この活動は感謝と目標を見失ったら
全てを失うと思ってます。
だから、絶対にこのふたつは忘れず、これからも戦います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?