何かを好きということ

プロフィールにある通り、私は自信がないことに関してはやたらと自信がある。
十代の頃にパン屋のバイトでレジ打ちをして出来たばかりのレシートを「ああ、ミスしていませんように」と念じながらお客さんに手渡すことを数年にわたって続け、自分は案外社会でやっていけるものなのだなとそこでやっと思えるようになったくらいには心配性の度合いが重たい。

そんな自分でも自信をもって「自分はこんなことに長けています」と胸を張って言えることがある。好きなものを増やすのが、とても得意だ。
とはいえ、それは相変わらず自信のなさの裏返しの賜物でもあるのだけれど。

自信がないと、とことん不安になる。そのうえちょっとでも体調が悪いとマイナスな方向へどんどん沈んでゆく。ただでさえ手持ち無沙汰になると何かを考えてしまうので、ぐるぐる考え続けているとあっという間に自信をなくしていってしまう。

そんな時に好きなものに触れると、なんとなく心が軽くなるのだ。ほんの少しだけど、沈む気持ちを持ち上げてくれる。それの繰り返しで、今日もなんとか自分は人の形を保っているといっても過言ではない。
「推しは、人生を輝かせてくれる」と昨今よく聞くけれども言い得て妙だと思う。
好きなものはありすぎても困るものではない。はずだ。


最近なんにも投稿していなかったので、ちょっと書きたいと思う。
長くなるけれど、暇ならお付き合い願いたい。

私は小学生の頃からラジオが好きだった。両親から譲ってもらった真っ黒いラジカセを自室の机の端に置き、ラジオ番組を聞くのが毎日の楽しみだった。そんな生活を中学卒業までやっていた。
当時は勿論radikoなどなく、聞くのはもっぱら地元のFM放送から流れる県内の情報や月のパワープレイミュージック、NHKFMで最新の音楽を聞いたり、夕方のラジオドラマも楽しみにしていた。ちなみに至って真面目な学生だったので夜は寝ていた。
今でこそradikoプレミアムに加入して俗に言う深夜ラジオをいくつか聞いてラジオ好きを自称してはいるが、深夜ラジオを好んで聞くのはもう少し先の話になる。

当時ラジオを聞くことで喜びを感じていた瞬間は自分の知らない音楽と出会う時だった。youtubeも音楽サブスクも普及していなかったあの時代の自分にとって、ラジオは未知の音楽に出会える数少ない手段だった。ラジオで知り、衝撃を受け、今でも好きだと言えるアーティストが結構な数いる。

中学二年の春あたりにある音楽に衝撃を受けた。
日本のバンドで、かなり前衛的な音楽であっという間に彼らのファンになった。レンタル屋に駆け込み(有り難いことに田舎のレンタル屋にも置かれていた)MDに取り込んで四六時中聞ける環境を整え、繰り返し聞いた。
ただ残念ながら、友人に勧めてみても反応は芳しくなかった。その分自分ひとりで思う存分、めちゃくちゃその音楽を愛した。
数年後、インターネットで彼らのインタビュー記事を文字通り漁っていた時、そのメンバーのひとりがお笑い芸人のラーメンズが好きだという文章を見つけた。
ラーメンズ。不思議な名前のコンビがいるものだなあと、その時は思うだけだった。

そこから数年後、高校生になった私は演劇部に入った。
チームワークあってなんぼの部活というコミュニティの中、人間関係に悩みまあまあの孤独を噛み締めていた日々にふとラーメンズの存在を思い出し、またレンタル屋に駆け込みラーメンズの公演DVDの何枚かを借りて退店した。
とはいえ最初はなんだかわからなかった。シンプルな舞台で男ふたりが織りなすお笑いと演劇の中間のパフォーマンスをただただ眺めていたが、いくつか作品を見ていくうちに次第にその面白さがわかり、それからはあっというまだ。小林賢太郎と片桐仁の作る世界にみるみるのめり込んでいった。
残念ながら、部員たちに勧めてみても反応は芳しくなかった。まあその頃の自分の立場を考えてみると無理もないかなと思う。眉間に皺が寄ってしまう。
ということで相も変わらずひとりで思う存分彼らの世界を自分なりに愛でた。
特に学校で読む訳でもなく、戯曲集「椿鯨雀」の文庫版をお守りのように通学カバンに入れて卒業まで過ごした。
音楽とラーメンズが傍にいてくれたので、高校時代はひとりでもそれなりにへっちゃらだった。

高校で人間関係のこじれに心底疲れた自分は専門学校を当たり障りのないように過ごし、社会人である。ちなみに未だに人付き合いが苦手でひとりが好きだ。
新卒ガチャで大ハズレを引き、ブラック企業に勤めた。そのうえ人の目のある中で仕事をするのが自分に相当合わなかったらしく、凄まじい速度で精神をすり減らしていった。ゾンビのような目で帰路に着いていたある日、カーラジオから深夜に賑やかな声が聞こえた。オールナイトニッポン。深夜ラジオだ。自分の未だ知り得ない世界がそこにあった。久しぶりにラジオの醍醐味に出会えた瞬間だったと思う。
そこの会社は入社して5ヶ月で辞めた。

新しく就職した会社は割とゆるく、ひとりで仕事をしている間は音楽を聞いても許される環境だったのでちょっとくらい仕事内容がきつくても自分にとっては幸せだった。なにより社員が多くて3人という超少人数の会社なので、人の目に怯えながら仕事をしなくても良いということがいちばん嬉しかった。

当時、木曜日夜22時台に久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポンGOLDという番組が放送されていた。
やっとスマホにradikoを入れた自分はひとりで残業をしていた時にその番組を聞くのが楽しみのひとつになっていた。基本、後ろ向きな思考の自分にとって深夜ラジオという世界とは相性が良かったのだと思う。特にひとりで残業をしているというどうしようもない状態にとって適度な距離感で寄り添ってくれる友人のようでもあった。
未だにユアビューティフルを聞くと一緒に太鼓の音が聞こえてくる。

それからというものの、radikoのタイムフリー機能でオールナイトニッポンを色々と聞くようになっていった。第二次ラジオブームの到来だ。

思っていた以上に長くなってしまったので、ちょっと一回区切ろうと思う。

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