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濱野ちひろ『聖なるズー』

僕はあまりノンフィクションというジャンルの本を読まない。年に数回ドキュメンタリー映画やNETFLIXの過激なドキュメント番組を観るくらいだ。そんな僕でもこの本は出版直後、本屋で平置きされていた時から気になっていた。動物性愛という強烈なテーマに加え、『聖なるズー』という印象的なタイトル。1年くらいずっと頭のどこかに引っかかっていた、「いつか読もう」という記憶がふとこの前蘇ったので、購入、読んでみた。

僕の大学での専門は(いちおう)社会学だが、社会学においてセクシュアリティ、ジェンダー、LGBT、クィアといったテーマは非常に重要な領域を占めており、何を語るにもこれらの観点はついて回る。一方で、大学の中でさえも、ジェンダー研究者とそれ以外の研究者の間には見えない壁・溝があるのは間違いない。その微妙な空気感は、学生レベルであれば「なんか怖い」という陳腐な言葉で、教授レベルであれば、失笑という形で表現される。大学空間・アカデミック空間は想像以上に閉鎖的で旧態依然とした世界だが、マックス・ウェーバー以来「〇〇すべき」という「当為論」の排除が正とされる傾向の強い社会学界隈では、ソーシャルアクトと結びつきやすく、実際アクティヴィストとしても側面を持つ研究者が多いジェンダー領域は腫物扱いされるケースが多い。(内ゲバが多い、という話もよく聞いたし、ジェンダー研究者自身もそのことを認めていたが、そもそも社会学界隈はいたるところで内ゲバや冷戦が勃発している地雷原だ)

まあとにかく、『聖なるズー』は、社会学・人類学領域の研究者による、動物性愛をテーマとしたセクシュアリティに関するフィールドワーク結果の書籍化という体裁になっているものの、学術書の範疇をはるかに飛び越えた面白さ(といってよいのかどうかは分からないが)を持つ読み物になっている。

学術的な観点から見ると、先行研究に関する言及はほとんどない。ヨーロッパ世界におけるキリスト教的世界観を用いた異性愛の強制と近代以降の性愛の管理、という話でフーコーの『性の歴史』が触れられる程度で、ジェンダー領域や現代思想における重要テーマでもある人間と動物に関する議論についても特に触れられることはない。

本研究の目的は人類学的アプローチによる参与観察、エスノグラフィーであり、動物性愛に関わる性志向の類型化・比較や、動物愛護運動と絡めた分析などは対象とされていない。研究対象はドイツのズーフィリア互助組織のメンバー及びその周辺人物だが、必ずしも彼ら彼女らが動物性愛者の代表性を担保しているわけではない(頭の固い研究者だと、このあたりから研究意義的なものに嚙みついてきそうだ)。また、個人的に気になった点としては、登場するズーたちの自らの性処理、マスターベーションに関する記述がほぼ欠落している点だ。動物側のマスターベーションは語られるため、人間側について何も語られないというのはやや違和感があった。あと、序盤に登場する動物愛護団体の姿があまりにも「過激でみんなから嫌われるタイプ」のアクティヴィストという感じを受けたのだが実際は彼らも一枚岩ではないのだろう。

とはいえ、『聖なるズー』で生き生きと記述されるズーたちの生活は僕たちの世界の見え方を大きく変えてくれる。筆者も冒頭で触れている通り、動物性愛にはいわゆる獣姦や女性に使う道具としての利用というイメージが強い。しかし、作中のズーたちは、非言語コミュニケーションを通じた動物たちとの対等なパートナーシップの構築にこそ価値を見出しており、彼らにとって動物との性行為はズーというライフスタイルの中の一要素に過ぎない。

余もすれば先天的な病気や異常性愛といったレッテルを貼られかねないズーフィリアが、ズーであること、をひとつのライフスタイルとして確立し、「自らズーになることを選ぶ」という選択肢すらあるというのはまさに新しい世界を見せられた。ズーというライフスタイルがビーガンやミニマリズムほど社会に受け入れらるとは思えないものの、動物と共生する生活のあり方としては十分にアリだろう。

少し前に、性転換手術を受けた性同一性障害の被験者のうちの少なくない割合が手術後の性に違和感を感じている、という新聞記事を読んだことがあるが、「自らズーになることを選んだ」ズーや、パートナーからズーであることのカミングアウトを受けてそれを次第に受けれていく女性のエピソード、そして何より過去に性暴力を受けたトラウマを抱える筆者の内省を読んでいると、セクシュアリティは先天的ですでに確定したものではなく、周りの環境や関係性に応じて日々揺れ動き変化するものなのだと強く感じた。

しかし、このズーというライフスタイルは、去勢されていない同種のオス・メスとの生活をしているズーが作中に一人も登場しない、という点で動物の権利という観点からすると大きな課題を抱えている可能性がある。人間側はズーになることを自ら選択しているが、動物側はパートナーとなることを自ら選択していないだろう。その場合、動物側はやむを得ず人間をセックスの対象としている可能性があり、その場合動物の権利は侵害されていないと言い切れるのだろうか??という極めて難しい問題がある。まあ、人間がペットを飼うために去勢する方がよっぽど暴力的ではあると思うが。。



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