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人魚歳時記 弥生 後半(3月16日~31日)

16日
さっき家から出たら、足元にはたくさんの、淡い水色の金平糖が散らばっている――
逢魔が時、その薄明るさ、薄暗さ。赤銅色した薄闇に、すべてが飲まれたその後に、いつも目立たぬハナニラばかり、可憐にぼんやり輝いた。

17日
茹で卵を縦半分に切った断面みたいな水仙。
とけた氷に薄まるソーダ水色のヒヤシンス。
あの鮮烈な椿の赤は、昭和のカレーライスに添えられた福神漬の色――
だなんて考えていたら、ヒヨドリが飛んできて花芯を啄む。
嘴が黄金色の花粉まみれ。花喰い鳥。

ハナニラが真っ先に咲いて


18日
強風の中、すみれが咲いている。アスファルトと石塀の隙間で、小さな姿を細かく揺らしている。
私たちも飛ばされそう。帰りたい、帰ろうよ。愛犬と目を合わせ、帰ってきた。
空と光線が澄んでいる美しい日。春は激しく風を飛ばして、誰のことも寄せつけないでいる。

19日
公民館の図書室に本を返しに行く。ある部屋の前を通ると、老婆たちが円陣を組みハーモニカを吹いていた。音楽サークルの人たちだ。
外に出ると、老婆たちの音色が聴こえてくるので、ゆっくり歩くと、木々の枝に若葉が芽吹き始めているのに気がついた。

20日
すっかり花粉に当てられて、目と鼻が芳しくない。息が詰まるので、いつも口を開いている。
トイレに入ると、裏の笹薮の奥にある家からピアノの音。間違えて、そこだけ何度もゆっくり弾き直している。曲名は知らない。小津 安二郎の映画で流れていたのと同じ曲だ。

まだ寒くても光線は強い


21日
今朝、大きな地震があった。怖いとは思わなかったけれど、ちょっと嫌な気持ちになった。春が来て、楽しい気持ちでいるけれど、実は悪い時代に生きていることを思い出したから。
急いで二階に戻ると、ドレッサーから落ちた手鏡を猫が覗いていた。

22日
春のガス器具の点検で、台所のコンロをカチャカチャやっていた検査員がふと、「皆がスマホやってるでしょう、家の中で会話がない。AIが文章まで書くでしょう。人間がおかしくなってくよ。寂しい時代になったね」と、「寂しい時代」を何度も口にして帰って行った。

#2
その独居老人のお宅は、敷地に入ると、玄関へと通じる道にハナニラや水仙が所狭しと咲いていた。どこを歩けばいいのか、どこを歩いても花を踏んでしまう。声が聞こえてきて裏に回ると、勝手口の前に老人車が2台置いてあり、中から笑い声が聞こえた。

高尾山の麓でみつけた招き猫


23日
寒い朝。睡蓮鉢には、また氷がパリッと張っている。やけに寒いと思ったら、朝の時間が終わる頃、外でパラパラっと音がする。
窓を開くと雪――いや、ミゾレかな。黒く冷えた瓦や、庭の防草シートに降り落ちてパラパラと、冬の音を奏でる春の雪よ。

24日
お饅頭を貰う。「皆が持ってくるんだよ。婆さん甘党だったからね」と独居の老人。
彼岸明けは昨日。
心なしかお線香の匂いがするお饅頭は、賞味期限が明日までなので、食後や間食に、仏の代わりにせっせと食べる。

25日
農協の直売所で水草を買い、バケツに入れておく。翌朝、針子が二匹泳いでいる。水草にメダカの卵がついていて、夜中に孵化したのだ。
育てば綺麗な白桃色。
四年が経ち、二匹は星になったけど、睡蓮鉢には沢山の白桃色した子と孫がいて、冷たい水の中をスィッと泳いでいる。

耕してない田畑は緑盛り上がる


26日
雨が降り、寒い。豚汁を多めに作り、お彼岸のお饅頭のお礼に持って行く。独居老人はこういうのがいいだろうと思ったが、
あれ、血圧高い人には塩分が高いかな? 
などと心配になる。器にかけたラップごしに人参やお豆腐がぼんやり見える。そこに雨粒が降りかかる。

27日
麦の若葉が眩しい。畑の中の砂利の道を歩くと、匂う。
道の脇に、鶏糞の大袋が山積みになっている。袋には『土の力』という商品名と、こちらに向かってくるSL列車が黒々と描かれている。
こんな商品があるんだなと、誰かに教えたくなった。

28日
田圃の端の、古い集落の墓地。お彼岸の花がまだ鮮やかで、前を通り過ぎると、いつものように、H家の墓前に鬼殺しのミニパックが供えられている。
呑兵衛が入っているのかなと想像する。
墓と馴染む、なんて言葉が浮かぶ。
雨模様で周囲は暗く、知った道でも迷いそうだった。

29日
窓を開くと、すぐ目の前の電線にツバメが一羽いて、毛繕いしている。白いお腹が汚れている。
遠くから来たのかなと、調べたら、マレー半島、フィリピン、台湾、オーストラリアから一羽で飛んでくるそうだ――と、手帳に7年前の日付。
ツバメ、今年はまだ来ていない。

降り注ぐ陽光まで撮れてしまった


30日
今朝、靄が濃かった。その中で、今年初めての蜘蛛の巣を見つけた。活動を始めたんだなと思う。
蜘蛛の巣には、ビーズを通したように、雫となった霧がいっぱいついている。
日中、暑くて、春が来たんだなと思いながら脱いだセーターには、一冬ぶんの毛玉がついていた。

31日
年寄りたちが「先生の家」と呼ぶ空き家の庭に桜の大木がある。咲けば毎年そこいら一帯が花で埋もれる。
とはいえ周囲は梨農家ばかりで、開花が始まった今日も、農園で剪定鋏の音が響くだけで人影もない。

不意の轟音。桜の向こうの青空を、飛行機が雲を描き横切っていく。

みどり
からす

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