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人魚歳時記 文月 後半(7月16日~31日)

16日
ときどき音もなく降りだし、また止む。
空は終日、乳灰色。
その下で植物が旺盛に盛り上がっている。
そして静か。

あ、こんな日が大好きだなと午後、窓の外を見て思う。

今日の天気をファイルして、好きな時に取り出し、その中で過ごしたいほど、落ち着く天気の今日。

宝石。


17日
水草を間引いてバケツの水に移し替えると、翌日には、もう針子が泳いでいる。水草の根にメダカの卵がついていたのだな。

雨が波紋を作っても、その下で泳ぎ回っている。目を凝らさないと見えないほど小さい針子には、ポリエチレンのバケツの中が全世界なのだね。

18日
朝早い旧国道に車はない。それでも愛犬と走って渡る。
途中で髪留めが外れた。
引き返して拾い上げたとき風が吹いて、少しだけ汗ばみ、熱のこもる髪の隙間を通り抜けていく。
なんて気持ちいい。
歩きだしながら、手櫛で髪を幾度も梳く。

19日
日用品と食料品の買い出し。干物や生肉を買ったから早く帰宅しようと思いつつ、お腹が空いて、イカの唐揚げなんかを車の中で買い食いする。
隣でアイドリングするバンの運転席では、おじさんがお弁当を食べている。
フロントウィンドウから空を見て、夏だなと思った。

夏のお勝手。


20日
梅雨が明けたら、もう早い朝から暑い。
日陰を選んで歩く。
通りかかるお宅の庭、木の下に置かれた大きな鉢から伸びる、ベロンと長い観葉植物の葉が、木陰の中で、濃紺に沈んで目にも涼しい。
打ち水をした庭先にじっと座る白猫の姿も、涼を集めているようだった。

朝のしろねこ。

21日
昨夜、窓を開くと隣町の花火が遠くに見えた。夏の週末、隣町はよく花火を打ち上げる。
黒い空に次々と浮かんでは消える花火は死者たちを連想して、寂しくなった。
夜明け、花火が上がっていた北の空の裾が薔薇色に染まっていた。


22日
昨夜は満月で、庭が明るかった。敷き詰められた砂利の一粒一粒がライトを当てたように輝き、庭木や植え込みが闇の中で濃紺に浮かび上がる様子が、芝居の書き割りのよう。
その物陰に、出を待つ妖精のプリマが潜んでいる。
月光の舞台。ひとときの空想を楽しんだ夜。

窓の外を眺める。

23日
探していたノートを発見。
昔レシピを書きつけていたノート。本棚の隅から出てきた。
暑くて、夕食のメニューが浮かばず困っていたので、いそいそと頁を開くと、
「ちゃんこ鍋」「筍ご飯」「おから餅」
など、季節外れで、作った覚えもないレシピばかりが記されている。なぜ?


24日
いつ侵入したのか、シジミ蝶が台所の磨り硝子にへばりついて、盛んに羽ばたいている。硝子は一面に夏の朝日を受けて、触れるともう熱い。
ようやく羽根を捕まえる。窓を開いて逃した刹那、陽の中に鱗粉が散った。
生き物の生命力と、はかなさそのものに、それが見えた。  


25日
くねる山道をいくら走っても、脇から伸びた枝が天井を作って陽を遮り、無数の蝉の声が途絶えない。
ハンドルを切りながら、巨大な緑の生物のお腹の中に閉じ込められている気分になる。

果樹農園が広がる麓に出ると、前方にトコトコ走る軽トラがいて、緑の幻想は終わった。

夏になると「Evergreen」という言葉がよく浮かぶ。


26日
早朝とはいえ、夏の陽ざしは容赦ない。
その畑の隅に、大小のひまわりが家族のように並び、空を背にして咲いている。いちばん高い一輪を見上げると、その真横に白い月が並んでいた。
月は、ひまわりの花と同じ大きさだった。


27日
紫陽花が、まだ咲いている。炎天下で、咲いたままゆっくり枯れている。
象牙色に変色した花弁は、古い温泉場のタイルと目地を連想させる。
いつまでも散りも落ちもしない花序の屍をつけたまま、葉ばかり青々と茂る真夏の紫陽花は、雨の中で見るより綺麗と思う。


28日
昨夜は雷雨が激しかった。
早朝、散歩に出る。未舗装の道を歩く。幾匹もの蛙が、足元から脇の草むらへと逃げていく。
そこいら一帯はまだ濡れていて、陽を反射して眩しく光っている。
私や愛犬の足元も濡れていた。
細めた目で空を見上げると快晴。
今日も暑くなりそうだ。

ジャングル。


29日
夏の陽の中で咲き枯れる紫陽花に見入っていたら、ふいに鶯が鳴いた。
春が終わってから、この鳥の存在を忘れていた。
空耳かと思って周囲を見渡すと、近くの大木の、混み合った枝葉の中で、また声がした。
鳴き方が上達している。
暑い中で実にいい声で鳴いている。


30日
昼に空が鳴ると、寝ていた愛犬が瞬時に目を覚まして、膝に駈けのぼってきた。
結局、雷が数回鳴っただけ。
でも、よほど怖いのか、ふいごみたいに膝の上で喘ぎ続けている。その犬の体は熱く、陽だまりを抱いているよう。
私は汗がじっとり流れた。
思わず「夏だねぇ」と呟く。


31日
夜明けに目が覚める。
空を横切る電線が窓から見える。
数えたら五本あった。その向こうに純白の雲が盛り上がっている。
雀の群れが飛んできて電線に止まると音符のようで、「ファ、ソ、ミ」と、空の譜面をたどるも、すぐに飛んで行く。
夏の夜明けの一曲は幻となった。

空に五線譜。
取れない。


夏の朝。

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