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人魚歳時記 卯月 前半(4月1日~15日)

1日
植えた覚えのない球根たちが、庭のあちこちで頭を出している。
ムスカリの青。イチゴ菓子の色したヒヤシンス。どれも可愛い花の頭。
植えた時、色々と思いを込めていたのだろうけれど、数年が経ち、今はすっかり忘れている。
ぬくむ空気の中、花が愛らしいばかり。

2日
引退した農家の老人が、自家用の野菜を作っている小さな菜園の傍らに、桜の巨木がある。
あの日、彼は桜を見上げていた。風が吹いて、満開の花が音もなく吹雪いても微動だにせずに――

今年、その巨木は切り倒された。あのお爺さん、亡くなったんだなと思う。

夕日を浴びる桜の花々

3日
灰色の空の下、今朝もあの鳥が鳴いている。歌うようなひとつらなりのメロディ。大きな声。調べてもわからない。気になってしかたがない。
「こんにちわ」道ですれ違った老婆に尋ねると、
「あぁ、コジュケイ」と教えてくれた。
柔らかい雨が降り出して、急いで家に帰った。

4日
窓を開けると煙が見えた。北へ向かって白くたなびいている。
道を挟んで向かいの畑で、山盛りのもみ殻を燻して燻炭を作っていた。煙はそこから出ていた。
火と煙が身近にあるのは、なんだかいいなと思った。

#2
ドキッとして足を止める。
落ちていたのは、産毛だらけの、木蓮の蕾を包んでいた苞葉だった。
野鼠の赤ちゃんかと思った。

5日
満開の桜の下は異界です。
あの下は、陽光は花に濾されて青みを帯び、薄暗く、急に物音が途絶えます。
田舎なので、犬の散歩コースには必ず桜の大木があります。田舎なので、満開になってもそこに人はいません。
いつの頃からか、満開の桜の下を、なんとなく畏怖しております。

桜の下で

6日
夕暮れどき外にいると、ハサッと、微かな気配がする。
首のもげた椿が一輪、四方に花弁を散らしながら、高いところから落下する途中だった。

#2
夜明け前に目が覚める。何かの気配。
雨かしらと窓を開くと、庭を横切る電線の一部がむくむくと膨らみ、闇夜に蠢いている。
懐中電灯を取り出す。
三匹程ほどいた。去年、庭のメダカを平らげたハクビシンの子供たちだろうか。こちらを見て目を金色に光らせている。嗚呼。

7日
枝垂れ桜は、染井吉野よりも一足早く、今が満開。
いつも一羽で行動するヒヨドリが、十羽ほど連れだって枝に止まっている。雀も多い。花に埋もれるようにして、やたらとさえずっている。
浮足立っているみたいだ。
きっと鳥も嬉しいのだろうな、花が。

8日
雨に打たれて、桜が舞い落ちる。
桜の蜜を雀が啄み、その花弁を吹雪かせる。
散る桜――
あぁ惜しい、もう少しそのままでと思いつつ、同時に、もっと散らしてくれと刹那的な美しさに酔いたくもあり。

9日
朝から激しく降っていた雨が午後遅く、ようやく止んだ。
冷えきった空気の中を歩く。
用水路は水かさが増して流れも速い。水は白く濁っている。小学生の時、図工の授業で水彩画を描いた後の、筆洗器の水の色だった。

用水路は遠くまで

10日
田園の中にある集落の公民館。瓦屋根の古い平屋。元は村の集会場。そこに桜の巨木がある。
見上げれば空の全てが桜で埋まっていた。
見上げる私の足元に、モグラが仰向けにひっくり返っている。
花の美しさに頓死したのか。それはわからない。

11日
桜が咲く頃、うぐいすの声。梅の実の赤ちゃん。犬の冬毛が抜け始める――
(平成が終わる頃のメモから)

犬は柴犬。今はいない。
今も一緒にいる子は、そんなに毛が抜けない。

背中をゴシゴシするトン子

12日
深夜に火が出て、頼る親戚もないから、老いた父母、長男、長男の嫁はしばらく公民館に身を寄せた。今頃のことで、公民館の桜の下で暮らすのが楽しいって、お嫁さん一人が元気だったな。

数年前に聞いた近所の話。
空地には、そのお嫁さんが植えた薔薇だけが、今も残ってる。

13日
田圃際の草が向こうまで黄色く枯れている。除草剤だ。
R・カーソンの「沈黙の春」が浮かぶ。教えてくれた高校時代の生物の女教師の丸顔もついでに思い出していると、遠くの林で雉が鳴いた。
住宅街に戻り、ふと見上げると、電線にツバメが二羽いた。
まだ春は来る。


みどり

14日
今年初めて半袖を着た。
「あれ、私の腕ってこんなだった?」
と、
久しぶりに日光に当てる腕は、妙に生白く、プニプニして、自分の体とは思えない奇妙さがある。

こんな、腕をあらわにする初日の感じ、嫌いじゃないけれど。

15日
用事があって隣町へ。
里山も麓も若葉の常盤、萌黄、
桜の朱鷺色、
菜の花の黄金色。
どこもかしこも、色あざやかに膨らんで、チラチラとわき見運転へ誘われる。
花酔い……それとも、花疲れ。
頭の中まで霞がかかり、慌てて瞬き、ふぅと息を吐いた。



一冬の間ずっと咲いてくれたビオラもそろそろ……。


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