視力表のCを頭の中でどこまで正確に小さく描けますか?
変な話ですが、脳の転写情報をチップを取り付けられ見られてるんじゃないかって考えたことなんかないですよね?僕もこういう話なると少し気持ち悪くなるんでいやなんですが。今日も幻聴がうるさいんで、それについて少し考えたことを書きたいと思います。
何か頭でイメージする画像って、目で見えるものを記憶して再現したりするじゃないですか?今日その件で考えてしまったんですが、頭で描く視力表のCがどこまで小さく空いている方向を認識しながら描けるかって。。。
おそらく頭でイメージするキャンパスの大きさもあると思うわけですよ。あと、頭に転写する時間の長さとかありますよね。脳の転写映像の研究についてあまり詳しく知らないで書いてるので、そのうちそれについて書かれた本とか買って読んでみようと思いますが、左0.2右0.7とかその人の無意識レベルの身体性というのか?制限を受けている視力の認識レベルに依存してるか?また、ここでの脳の反応はどういうところを指すのかも詳しくはわかりません。
ほんと脳の転写映像というのは、制限を受けた内容でどこまで自由になるのかなぞですよね。質量がなく大きさが脳のイメージの中では相対的で、局所的なイメージと全体的なイメージの脳の処理が少し違うのか?宇宙全体の脳の活動のエネルギーの分布はわかりませんが、局所的に集まる人間という解をなぜ与えているのでしょう。まさに私の頭で考えるイメージと終わりがない宇宙全体のイメージに繋がっているストーリーすら感じます。
そのストーリーとは、見えてないものを見ようとすると分別のある意志や想像力の力で、様々な情報をインプットし、考えないことをあえて思考停止にならず考えぬくことで、少しずつ輪郭を与えるということではないでしょうか。冒頭に戻りますが、そういう脳のイメージの大きさの違いと精神のバランスの問題ってやっぱりあるから、多くの人間はより小さな空いている方向を認識しているかわからないCを認識出来ず空いてるんだと思いこんだり、制限を受けた全体的なレベルも自己認識して間違った把握をしてしまったり、出来なかったりする。
ここで脳研究の現場からですが、脳のフィードバック情報というか頭の良さではないかと思うんですが、見えないものを見ようとする時、人はいろんなことを考えるものです。割と輪郭が少しずつくっきり見えるように修正されていく不思議な面白さがあるような気がしませんか?
脳の転写映像など小さなCを思い描くことから、いろいろ考えて、イメージについて語ってきたつもりですが、人間のやれることって、勉強を日々続けている人との差は案外今みたいな世の中は天文学的に差がついてるのかもしれません。遠くの見えない何かを見つめ、何かのイメージや自分の生き方が全体的な脳の構造のイメージの中で貫徹する経験を伝えたかったのか?宇宙に行った前澤さんの話を、月一回の精神科の通院の帰りのタクシーの中で、タクシーの中で話してくれた母親にも感謝です。
ぼくはバランスの問題ではないですが、多くの人間にとって、それはやはり僕の場合はもはや戦いなのです。勝つしかないのです。そして、感情を巻き込み取り戻していくのです。
来年の抱負は、幻聴に負けず本を読んでアウトプットするです。
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