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無責任な「辞めてもいいんじゃない?」を大切にしたいと思った話

何かを変えたいと思うとき、
どうにかしたいと思うことにぶつかったとき、
本当に大切にするべきなのは、
無責任に「辞めてもいいんじゃない?」って言ってくれる人だと思う。

とりあえず生きていくためとか、
安定して収入を得るためとか、
今の生活を崩さないためとか、
「気持ち」に反して、すぐに動けない事情は誰にでもある。

イヤ。だから辞めます。
他に好きな人ができた。だから今すぐ別れて。

そんな風に勢いよく生きていくことには誰だって一度は憧れる。
けれども、そう簡単にはいかない「事情」が、誰にだってある。

どんなに今の職場がひどくったって、
次の転職先のあてが見つかるまでは辞められない。
どんなに新しく好きになった人に惹かれても、
例えば今の相手と一緒に暮らしていたとしたら、
次の家を探すまでは、引っ越し資金が貯まるまでは別れられない。

渦中にいるときには、
○○する「までは」○○「できない」
のループにはまってしまいがちで。

そんなループにはまっているうちに、
勝手に自分で決めた「○○するまでは」に苦しみ、結局「○○できない」の部分だけが残ってしまう。

辞められない。
別れられない。

でも、その先に新しい未来はない。

そんなとき、
「イヤなら辞めてもいいじゃん」
「もう気持ちがないなら別れてもいいじゃん」
って言ってくれる人こそ、大切にしていくべきなんじゃないか。

一見無責任なようだけれど、
まずは余白をつくらないと新しいことは入ってこられない訳で。
まずは「今」をえいや!と変えてしまえば、
どうにかなるかもしれない訳で。

自分で決めた、その「○○するまでは」は、
外からみると案外重要じゃなかったりするのかもしれないなあ、なんて。

「今」の私の姿は、どうやったって直接私の目で見ることかできない。
だから、頑張って目を凝らせば見えそうな、
「ちょっと先」の私を見ようと躍起になるのだけれど。

周りの人からは、「今」の私がよく見えていて。
私が決して直視することのできない、「今」の私を凝視してくれる人がいて。

すごいつらそうだよ。
つらいなら辞めな。
無理だけはしないで。
どうにかなるから。

本当に自分に余裕がないときは、
そうは言ったってこの先どうするんだ、とか、
頑張るしかどうしようもないじゃん、とか。
そう思ってしまうことだってある。

冷たいようだけど結局は私の人生だから、
私の人生の時間の使い方は、
私が責任を持って決めるしかない。

でも、この人たちは確実に、
私自身よりも「今」の私が見える位置にいる人たちなんだってことだけは忘れずにいたい。

無責任なことを私のために、
一生懸命に言ってくれる人こそ、
一生大切にしていくべき人。

この人たちが「○○するまでは」ループにハマりそうになったときには、
そのときには私が、この人たちにとって、
「無責任な人」でありたい。

そんなことを考えてみた。


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