「結婚しない自由」が結婚したい人を苦しめた
非常に面白い記事を見かけた。
結婚しない自由という価値観の蔓延が近年の急速な非婚化を推し進めたことについて、的確な指摘をしている記事であると感じる。
個人の自由を重んじる価値観の浸透により、「結婚に捕らわれない自由な生き方を認めるべきだ」という考えは瞬く間に浸透した。この言説は基本的に「従来通り結婚して家庭を持つ人」と「結婚せず一人で自由な生き方を選ぶ人」に分かれ、どちらの生き方を選ぶか自分で決めればいい、という趣旨で用いられることが多い。
しかし、現在の状況を見ていると、残念ながらこの価値観によって結婚したい人も結婚できない状況に追い込まれ、社会そのものも立ち行かなくなっていると言わざるを得ない。
今回はどういった影響や結果が出たか、改めて整理してみようと思う。
・妥協が出来なくなった
誰でも結婚しない自由を行使できるようになった結果起きたのが、無理をしてまで結婚する必要はないという考えが共通の認識として広まったことだ。
昔であれば周りに言われてそこそこの相手で折り合いをつけて結婚、家庭を持つことが一般的であった。自由は制限されても、誰でも早いうちに家庭を持ち腰を据えることが出来ていた。あぶれる人はごく少数で済んでいた。
しかし、経済の発展によって生活の利便性が上がり、娯楽文化が充実してくるとひとりでも問題なく生活できる環境が出来上がった。それにより自由な生き方を尊重しようという声も強くなり、先述の結婚しない自由の主張にも繋がった。周囲の人間が口出しすることも「価値観の押し付けである」と排除され、個人が快適に暮らすことに特化した社会が出来上がった。
自由に生きれる環境とそれを受け入れる価値観、この両方が揃った結果、「ひとりでも十分に生活が出来るのに何でそれを犠牲にしてまで結婚しなきゃいけないのか、いい人との出会いでもなければわざわざする必要はない」「中途半端な相手で妥協するくらいなら独身のまま自由に生きる方がまし」という考えがごく一般的なものとなってしまい、相手を選ぶことに対して折り合いをつける必要がなくなってしまった。
こうなると、結婚にありつけるのは一人で生きること以上のメリットを提供できる者、つまりハイスぺのみとなり、他の人は皆、一人の快適な生活を捨てることに釣り合わない存在であるとして誰も選ばれなくなった。結婚の贅沢品化である。
「結婚できないのはお金がないからだ」という主張はよく見かけるが、これは一人で自由に生きる以上のメリットを提供するためには金を持っていることが一つの要素になる、という風に考えた方が正確だろう。本当に問題なのは金が無ければ結婚に至れない価値観そのものである。
・結婚をサポートする文化が失われた
引用の記事で詳しく書かれているが、結婚しない自由の浸透によって起きたのは、多くの人が結婚できるよう整備されていたお見合いシステムの消滅だ。
自由を主張していた人からすれば、旧来のお見合い文化は個人が地域やコミュニティによって縛られ、生き方についても思いっきり口出しされるうっとおしい、目障りな文化だったのかもしれない。そういったシステムをなくして誰もが自由に相手を選び恋愛できる社会になればみんな幸せになれる、良い社会になるという風に考えていたのだろう。実際、テレビドラマでは主人公がお見合いの話を蹴って思いを寄せる人と結ばれる、という話が美しい恋愛ストーリーとして書かれることも多い。自由な恋愛を求める価値観が世間にあったからこそこういった内容が書かれてきた。
しかし、自由な恋愛によって恩恵を受けることが出来るのは強者の人間だけである。特に男性はそうだ。強者男性に女性たちの人気が集中し、他の男性たちは売れ残る。女性も強者男性に選ばれた人以外はあぶれ、妥協のできなさから売れ残った男性を選ぶこともできなくなる、といった感じで強者男性と男性に選ばれた幸運な女性以外は皆恋愛や結婚に至れなくなる。
こうなると、売れ残った人同士を結ばせるためにお見合いの需要はあるはずなのだが、自由な生き方の推進により地域コミュニティは壊滅し、職場からの紹介も「結婚を押し付けている」と差別やハラスメント扱いされるリスクから容易に出来なくなった。
その代わりとして登場したのが婚活サービスであるが、これはお見合いを謳っているものでも基本的には自由恋愛のシステムである。しかもその仕組み上、その気になればいくらでも相手を探せてしまうので、「もっといい人がいるかもしれない」と一層妥協できない環境を作ることを促してしまった。近年の急速な非婚化は自由な恋愛をより気軽に、より沢山選べるようになったからこそ起きている。
自由を重んじる価値観故に、競争に負けた人たちを助けるセーフティーネットも失われ、結婚したくてもできない人を大勢生み出すことになった。
追記:
まとめると以下のような流れになる。
近年の何でも自由化する価値観と技術革新が組み合わさり、誰も結婚しない、結婚できない社会が出来上がったと言えるだろう。
・政治による対策が打てなくなった
結婚しない自由による弊害は個人やコミュニティだけに留まらない。国を動かす政治もまた、身動きが取れない状態に追いやられてしまっている。
結婚について他人が言及することが、価値観の押し付けやハラスメントとして排除されたことは先述の通りだが、特に政治家や政治家に匹敵する影響力を持つタレント、著名人の場合は言及するリスクが飛びぬけて高くなった。
ひとたび結婚や子供に関する言及を公の場でしてしまえば(特に言った相手が女性である場合は)、差別的でセクハラな言動としてメディアや世間から壮絶なバッシングに遭う。そして最悪の場合にはキャンセルされる。
政治家にとっては自分たちの票集め、政権運営に大きく影響する事態であり、著名人にとっても自分のキャリアや今後の仕事に多大な影響を及ぼす。おいそれと話題に出したり、問題解決に向けて議論をすることは難しくなってしまう。
その為、「子供を育てたい人が安心して育てられるようにする」という福祉や支援の形で対策をとったポーズをとり、本来の原因である結婚したくてもできない人がいる問題からは目を背け続ける。国民もその聞こえの良さから子育て支援を絶賛し、熱心に取り組む国や市長を賛美する。根本的な解決は出来ないまま時間だけが過ぎていき、その分だけ少子化が進むのである。
少子化について「政治が問題を放置してきたのが悪い」と批判する人は少なくない。しかし、言及しただけで袋叩きにして、議論を深める余地をなくしてしまったのは他でもない国民自身であることを省みなくてはならない。この状況は今の総理大臣のスタンスを見ても明らかである。(もっと言えば、国民がお金と子育て支援の不足こそが全ての原因であるという論調に固執して、他の要因に全く目を向けていない所から問題がある。国民自身が問題をきちんと認識できていない)
・国民自身の問題
結婚にとらわれず自由に生きる、色んな生き方や価値観を尊重するというのは聞こえはいいかもしれないが、それは結婚しない生き方を選ぶ人が現れるだけで終わりではなかった。
思っている以上に広範囲に影響が出ていることを認識し、行き過ぎた風潮を見直す必要がある。これは政治がどうこうの問題ではなく、それを求めてきた国民自身の問題である。白饅頭氏の言う所の物語の否定を行うのである。
国民の意識が変わることで初めて政治も本格的に取り組むことが出来るようになる。綺麗な物語に入れ込むのではなく、現実を見るべきである。
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