マーティン・マックスフライの憂鬱 第4章 アクセルをふかして

作業を一段落させ、何か飲もうと1階のダイニングへ降りると、そこに座っていた母親が声をかけてきた。
「どう?、荷造りは順調?」
「うん、あともうちょいかな。なるべく荷物は絞っているつもりなんだけど、やっぱり車一杯になりそうだよ」
「そう。こっちに来て一緒にお茶でもどう?」
「ああ、そのつもりで降りて来たんだ」
母さんは、ポットのお湯を沸かし直し、僕の為に紅茶を淹れてくれた。
また太陽の輝く季節が巡って来た。
庭先の植物群はどんどん葉を茂らせ、その度に母さんの草刈りと芝刈りを手伝わされる羽目になっている。でも、そんな緑との格闘も今年限りだ。
「ギターは持って行くの?」
「いや、いとこのサムが欲しがってたから、あげようかと思って。その内、取りにくるってさ。サムが来たら渡してあげて」
ギターに、スピーカーアンプに、エフェクター。部屋のスペースを奪うそれらは、大学の寮には持ち込まない方がいいだろう。
「わかったわ。それにしても、あなたいきなりギターにのめり込んだわよね。半年前位だったかしら?」
「うん、それ位の時期だね」
「最近は全然、弾かないのね?」
「うん、そうだね」
「いきなり上手かったからびっくりしたわ。隠れて練習していたのね」
「ああ、うん」
「それに、急にクレー射撃を止めちゃって。まさかショットガンまで売り払っちゃうとは思わなかったわ」
「先月、もっといいヤツを買ったから、大学でも続けるよ。その為に強い射撃クラブのある大学を選んだ訳だし」
「そうね。きっとまた候補生に選ばれるわよ。そういえば成績が急に悪くなったのもその頃よね?、あの頃のあなた、ちょっと変だったわ。お母さん、心配してたのよ」
「そうだったかな。よく憶えていないんだ」
母さんの表情には、我が子をへの気がかりが表れている。
心配を払うような何かを告げるべきだろう。
「ほら、思春期ってみんなおかしくなるじゃないか。そういう事なんだよ。母さん」
まだ不安の色の残る母親に、さらに言葉を継いだ。
「大丈夫だよ、母さん。もうすっかり元の僕さ」
「そうね。私にも憶えがあるわ。ホルモンの異常分泌ってやつよね。それにしても、もっと近い大学で良かったんじゃない?」
「母さん、子供は巣立つものなんだよ」
「でも、お兄さんもお姉さんも、ずっと家に居るじゃない」
「だから、寂しくないだろ?」
「そうだけど・・」
「母さんたちがニューヨークに遊びに来ればいいんだよ。ミュージカルも興味あるって言ってなかったっけ?」
「言ったけど・・、それよりマーティン。あなたはジェニーとはゆくゆくは結婚するものだと思っていたわ」
そう、僕もそのつもりだった。
だからこそ、当初は、地元の大学を希望するジェニファーと同じに、実家から通える大学へ進学するつもりだった。
いつからだろう、何故だかジェニーと一緒に居る事に違和感を覚え始めた。
それはカップルによくある、乗り越えなくてはならない壁だと思っていた。
いづれは克服できるものだと。でも、そうはならなかった。
「うん・・、ジェニーは本当にいい子だったよ。きっと悪いのは僕の方なんだ・・」
僕の物憂げな表情を見て取った母さんは、それ以上、その話題には触れて来なかった。
本当に、どうして別れてしまったんだろう。
母さんと同じに、僕も彼女が一生の相手だと確信していた。それなのに・・、どんな歯車の狂いが生じたのだろうか。それは僕にも解らなかった。
解らないといえば、何で僕は急にギターなんか始めたのだろう。そしてなぜ最初からそれが弾けたのだろう。
荷造りをしていて、部屋の片隅に自分が記したらしい日記を見つけた。
らしい、というのは自分には日記なんか記した覚えがなかったからだ。でも確かにそれは自分の字だった。
そして、そこには奇妙な言葉の羅列があった。
「ギターの弾き方を忘れて行く」「僕が消えて行く」そんな短い文句がつづられていた。
何だか、見てはいけないものを見たような気がして、否、僕の中の何かが「これ以上は読むな」と強く告げたので、すぐにキッチンのコンロでその日記を燃やした。
あの日記のあの言葉は、どういう意味だったのだろう。
日記を記した当時の僕は、鬱か何かだったのだろうか。
「ごめんなさい。2人の事は2人の間の事よね」
「うん、世界の終わりじゃないさ。恋人と別れてもね」
「きっと、東海岸に行ったら、全て上手くいくわ」
「ああ、そうだといいな」
紅茶を飲み干し、カップを流しに持って行こうとして、何か母さんに言うべき事があるように感じ振り返った。でもそれは何なんだろう?
「どうしたの?、不思議そうな顔して」
「あ、うん。母さん。僕、最近変な夢を見るんだ」
「そう、どんな夢なの?」
「僕らが住んでいるこの家がボロボロでさ。車もオンボロなんだ。もう走ってるのが奇跡って位の代物で。それでお母さんの作る食事はジャンクフードばっかりで、そのせいでお母さんはとても太ってたんだよ」
「もー、やめてちょうだい、マーティン。母さんはヘルシーのものしか作らないでしょ?」
「うん、だから夢の話だよ。その夢の中の僕はミュージシャンを目指してるんだ」
「ああ、そうなのね。それでギターを急に始めたのかしら?」
「そうかもしれない」
「で、夢の中のあなたはミュージシャンになれたの?」
「それが、全然ダメでさ。学内オーディションにも落ちまくる位なんだ。とても見込みないよ」
そう口に出して、何か棘のようなものがチクリと胸に刺さるのを感じた。
「そんな夢も思春期の不安感の表れなのかもね」
「うん、そうなんだろうね。現実のお母さんがスリムで良かったよ」
「これからも食生活には気を付けるわ」
「でも・・」
「でも?、何?」
「いや、何でもない。もう戻って今晩中に荷造りを仕上げちゃうよ」
「そう、母さんたちはもう寝るわ。遅くなり過ぎないようにね」
「うん、お休み。母さん」
階段を上りながら、戻って母さんに打ち明けるべきだろうかと逡巡した。
いや、やはりそれは出来ない。
「その夢の中の自分が、ミュージシャンを目指している自分が、本当の自分のような気がするんだよ」などとは。

インターでの乗り換えを間違えて、余計な時間を費やしてしまった。
この分だと、予約してあるモーテルに辿り着くのは0時をまたぎそうだ。
トヨタ・4WDハイラックス。本当に最高の車だ。
学友にもこれに並ぶクラスのハンドルを握る者は、そうそう居ない。
友人は大抵、中古車だ。父さんには感謝しかない。
車がディーラーによって届けられた日の朝、「これが父さんからの誕生日プレゼントだ」そう言った父さんに、思わず抱き着いて頬にキスをした。
でも何故だろう、いつの頃からか、自分がこの座席に収まる事に違和感を感じている。
いや、違和感を感じているのは車だけじゃなかった。
何だか、誰も知らない、言葉も通じない外国に独りで放り出されたような、そんな感覚に陥って、それが今でもずっと続いている。
『離人症』とか、そんなやつかもしれないと思って学校の図書館でも、市営の図書館でも調べまくったけれど、僕の中に渦巻く違和感は、どの症状にも該当しなかった。
昔、深夜にTVで放映されていた映画を観た。
それは全ての人間が宇宙人に体を乗っ取られ、主人公一人だけが、その違和感の中で慄くというストーリーだった。
今の僕が、正にそれだ。
だから、それまでの志望を撤回して、大陸の反対側の大学を選んだ。
これまでの友人知人とは違う、出会うのは全て初対面の人たち、そんな環境に逃れたかった。

暗闇の中、ヘッドライトの導く先を見つめながらの運転は、いつもとは違う意識状態になってしまう。
ショットガンは盗難防止の為に、助手席に置いてある。
右手をハンドルから離し、そのケースを撫でながら、新しい大学では良いスコアを残せるだろうかと懸念を抱いた。
まあ、なるようにしかならない。
きっと大学は希望に満ち溢れた場所のはずだ。
しかもニューヨーク州なのだ。刺激が満載の、退屈とは無縁の生活が待っている。
でも本当に僕はどうしてしまったのだろう。
明朗で快活な性格だと、周囲からはそう思われていたし、自分自身もそう思っていた。
それが、ここ最近はずっと心の中に靄がかかって、陽気な自分じゃいられなくなっている。
こないだ母さんが言った通り、半年位前からだ。
なんだか、それまでの自分が、自分じゃなくなったような。
いや、家族も友達も、出会う顔全てが、それまで知っていた相手とは違う存在になったような、そんな感覚に捕らわれ始めた。
ジェニーと上手くいかなくなったのも、そのせいだ。
顔を横に向ければ、助手席にはジェニーの横顔があるはずだった。
でも今そこにあるのはショットガンのケースだ。
暗闇の道路を見つめていると、ジェニーと過ごした時間がどうしても頭に蘇って来る。
「哲学なんて、何の役に立つんだい?」
ジェニーの機嫌は損ねたくはなかったけれど、それでもその問いを発せずにはいられなかった。まだ付き合い始めたばかりの頃、彼女が哲学のクラスを受講していると知った時の会話だ。
「あら、マーティン。哲学は全ての学問の基礎なのよ」
「昔の頭のいかれた中国人の話を学ぶのがかい?」
「?、ああ。さっき私が説明した『胡蝶の夢』の事ね」
「そうさ。そんなのが学問になるだなんて、世の中間違ってるよ。夢の中で蝶々になった自分が本当の自分だなんて、狂気としか言いようがないね」
「まあ確かに。先生もその意味を質問されて困ってたわ」
真面目なジェニーの事だ。きっと哲学も履修し終え、単位を得たはずだ。
そして今、自分が蝶なのか、蝶が自分なのか判らなくなっているのが、この僕なのだ。

燃やした日記には「僕が消えて行く」そう記されていた。
その下にあった言葉はこうだ。
「蝶は最初から存在しない。蝶だった頃の意識が、その記憶だけが、男の中にダウンロードされた」
「洋服も僕の肉体も、嵐の落雷の夜にデロリアンの加速と共に次元の彼方へと分解されて行った」
「ただ記憶だけが、このクレー射撃選手の中に入り込んだんだ・・」
燃やした日記を再び見る事は叶わない。でも確かにそんな言葉がつづられていた。
”大丈夫。僕は正常だ・・”
きっとこういう事なんだ。
ジェニーから「贅沢に慣れないで」とたしなめられた。「お父さんのような作家って、特殊な才能なのよ」とも言われた。
クレー射撃にも、まだまだ上が居る事を悟っていた僕、ジェニーからの称賛を繋ぎとめておきたかった僕は、将来の可能性としてお父さんのように作家を目指そうと考えたんだ。僕もなれるんじゃないか、って。
そして、ミュージシャンを目指す高校生のストーリーを考え付き、でもそれは形にできなかった。それが情けなくて、無意識がその記憶を封印させたのだろう。
ミュージシャンを志す僕が、心の中で鎌首をもたげる度に、「お前は僕の作り上げたフィクションだ」と、そう自分に言い聞かせた。

先日、母さんには「すっかり元の自分に戻った」と、そう告げた。
でもそれは本心じゃない。
今でも、異邦人の感覚はずっと続いている。
自分が頭の中で作り上げたキャラクターの記憶。それが振り払えないでいるんだ。
まるで映画スクリーンの中から客席を見下しているような、ずっと冷めない夢の中でもがいているような、そんな感覚から抜け出したかった。
「大学に行けば、全ては上手く回り出すさ・・」
向こうでは陽気にやろう。そうできるはずだ。

●“東洋哲学でも学ぼうかな・・”
そんな頭の片隅の

本来の自分自身を取り戻す。そんな未来を信じてアクセルを踏み込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?