創作論の議論はなぜ正しさを振りかざすのか? デフォルメ・サンドイッチの話
先日から異世界で外国語、サンドイッチは有りかと作家達が議論していたが、今度はデフォルメ表現で絵師達が議論しているようだ。
私個人の考えではこれらはバカバカしい議論だと思っている。
それは創作とは己を突き詰めた先にこそ答えがあり、その答えはその人のみの真実であると考えているからだ。だからこそ、他者に受け入れられることも、他者が真似することのできない聖域とも思っている。
実際、ピカソの絵を見れば分かる様に、初めから奇抜な絵を書いていたわけではなく、多くの作風を経て自身の到達点がキュビスムといった形になっただけである。なにもこれはピカソだけの話ではない。
それにピカソ自身の逸話として「30秒」で描いた絵に対して、100万ドルといい、驚きに対して「30年と30秒」で描いたモノと答えたとある。
この事からも結果だけをもてはやされ、それまでの積み重ねは無視されがちの要素である。
また、ピカソを例にすれば、ピカソの絵は大金で取引されるから、このキュビスムの表現方法が絵においては正解なんて誰も言わないだろう。
そもそも、絵も、文学も流行がある。そして、受け手、世相的にその感性も変わってくる。今にとって例えそれが正解であっても、すぐに変わってしまうのだ。
若くして絵で売れたとしても、同じ手法で晩年も売れないといった話もあるだろう。
さて、長くなったが私の考えを伝えたく、こう書きだしたのではない。
私には作家達の議論といい、絵師達の議論も、創作論のある種の正しさを語りたがるのは不思議であった。
先の私の考えのように先人達は創作活動の末に見つけ出し真実を答えとしている。活動が10年にも満たないような者があり方を議論するのはまだいい、だが、その正しさを決めつけて語っているのかは謎でしかなかった。
ただ、この点は自分が納得できる答えを見つけたのでこれを語りたい、答えは先の考えの逆であっただけだ。
“自身の技法に『不安』だから、共感して納得して欲しいだけ”
先日もリモート化でのマナーに関して、マナー講師が新たに提唱しており話題になっていた。こちらもバカらしい話である。
ただ、誰も体験してない行動に対して相手に不快を与えていないかと『不安』になるのは分かる話。その『不安』に対してマナー講師はマナー、常識と決めつけて『安心』を売っているのである。例えは悪いが詐欺師とて相手に共感して、心の隙間に入り込む。そういうことである。
だからこそ、クリエーター自身が作り上げた技法に不安となり、他者と共感したいと発信する。ただ、他者とて自身の作り上げた技法にこそを共感して欲しい。だから、議論となる。己が正しさを振りかざす結果となる。
そう考えれば、これらの議論はバカバカしいと決めつけるのは私個人の早計であったと思う。それにこういった心理は創作論での議論に限って話でもないことだし。
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