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なろう系とハーレムについて ~一般とのズレ

なろう系とハーレムとは本来、相性が悪いのではないか?

俗になろう系読者は努力や苦戦描写を嫌うと言われている。また、主人公の人間関係も希薄な場合も多い。そんな中でハーレムという、他人で構成された小さい社会であり家族でもある。そして、権力としてのステータスであると同時に結果でもある。そんな他者との結びつき、過程の結果を求めているのは真逆ではないだろうか。

また、なろう系はゲーム的と語られるが、そんなハーレムを題材とするエロゲーであってもハーレムの達成は攻略難易度が高かったり、全ルート攻略後に可能となるルートだったりする。ここでも困難な過程である。それに既に用意されたハーレムエロゲーというのも、あまり聞いたことがない。

今回、このように思った経緯を語りながら、なろう系とハーレムについて改めて考えてみたい。

■なろう系読者と一般読者で、ズレのあるハーレム感

なろう系のハーレムにズレがあると思ったのは、YouTubeの動画である。YouTubeと言っても、誰とも分からない人の話す内容ではなく、Vtuberが提供するコンテンツからである。

最近のYouTubeでの流行はランキングにまとめて紹介するスタイルが流行らしい。ここのVtuberは、いつも動画の流行に乗っている。制作は別だろうが…(別の動画チャンネルでは、あのひろゆき氏に取り上げられていたし)

さて、そんな背景はともかくとして、このきまぐれ委員会では勝手な偏見に対して、正しいかどうかを独断と偏見で勝手に決めていく組織とのこと。
だから、真に受けても仕方が無いのだが、気になるのはサムネでも描かれている2位である。

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ただ、文字として書かれている内容だけなら違和感がないが、注目したいのはイラストの描き方である。これは似たような構図で描かれるなろう系アニメと比較したとき、明白な違和感となってくる。

主人公が玉座に座り、美女をはべらす様というと構図は、なろう系アニメでは『異世界はスマートフォンとともに。』、『百錬の覇王と聖約の戦乙女』が有名だろう。

ただ、先のきまぐれ委員会で描かれたイラストと比べたら、やはり何かが違う。構図自体は『百錬の覇王と聖約の戦乙女』とほぼ同じなのに。

これに関してはもう一つ、参考を出すことで違和感の正体が見えてくるだろう。

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エロゲーからの紹介とはなるが、『ランス10』という作品である。ただ、エロゲーとしてはまだおとなしいパッケージではあるが、それでも艶めかしい部分は書かれている。

これを見ると、きまぐれ委員会はテーマである異世界アニメではなく、エロゲーの方がイメージは近い事が分かるのではないだろうか。

では、この違和感の正体とは何か?

努力や苦戦描写を嫌う、なろう読者には答えも長引かせても失礼だろうから、結論を述べると“目線”である。また、先に述べた艶めかしい要素もある。

なろう系作品はハーレムを形成していても、その作品の表紙、イラストでのヒロイン達が向いている先は主である主人公ではなく、正面、読者側を見ているのである。これはなろう系作品に限った話ではないが、それでもある点のせいで、多くがそう感じてしまう。一旦、ある点に関しては後で語るにして、先に目線の違和感に関して語っていく。

『百錬の覇王と聖約の戦乙女』の原作表紙ではまだヒロインの目線は主人公に向けられていたが、アニメ版ではキャラが増えたこともあり、より視聴者側に視線が向けられている。

しかし、きまぐれ委員会の方はきっちりと視聴者側でなく、主である方へと目線が向けられて、頬も赤らめている。ゆえに同じ構図だとしても、大きく印象が違っている。

ただ、『ランス10』はエロゲーでも異端な作品、このパッケージの描き方も異例に近い。何しろ、ナンバリングだけでも10作、番外編も多数。そして、平成とエロゲーの黎明期を同じくしてスタートし、30年弱続いたエロゲーでもある。

本来、エロゲーのパッケージで主人公が描かれることは少ない。これはギャルゲーであっても同様だが。

これは主人公=プレイヤーであることを意識しているのだろう。それもあって、パッケージでもヒロイン達は箱の外を見ていることが多い。その目線の先は主人公=プレイヤーがいるからだ。

『ランス10』の場合、主人公であるランスに対する思いは長年続いているだけにプレイヤーにも特別。また、ヒロインもシリーズを通しての登場だけ、単なる好きという話でも終わらない。
これに関しては個人的な思いも語り出しそうなので、やめておく。また、ネタバレ無しで語れない部分もある。

それだけにエロゲーのパッケージで主人公が描かれる場合は、主人公の性格がしっかりしているというか、主人公とプレイヤーは完全に別物として描かれていることが多い。

同様にRPGではプレイヤー分身である主人公がしっかりと描かれている場合が大半である。

この表紙に主人公が描かれる点は、なろう系作品に意外に多い傾向である。反面、同じ文章媒体であるライトノベルは、ヒロインというか女の子のみが描かれていることが多い。
表紙でキャラクターが正面を向いている点はライトノベルでも共通している点だ。しかし、なろう系と違い主人公が描かれていないため、印象は大きく違ってくる。

そう、ハーレムモノとタイトルで明示されていても、主を見ていない矛盾をした構図となっている。

なろう系とライトノベルの表紙に明白な違いになったのか、正直私には分からない。
ただ、なろう系でネタにされる要素として、スマホ太郎、デスマ次郎と続く系譜がある。これは蔑称として使われたが、高い汎用性からなろう系を表す言葉としても使われている。

この事を見ても、なろう系における作品の顔は良くも悪くも主人公にあるのではないだろうか。これほど、なろう系作品がアニメ化もされ、広く認知されているのに、綾波レイ、長門有希などといった、誰もが知るヒロインというのは未だ語られていない気がする。

むしろ、語られているのは「またオレ何かやっちゃいました?」、「黙れドン太郎」といったキャラクターの名前は知らないが、行動、言動だけは知っているというインターネットミームである。

そして、このなろう系ヒロインも色々と揶揄されることがある。敢えて今回は語らないが、こういった点がなろう系とハーレムにずれを生じさせている要素は無いだろうか。


ともかく、気まぐれ委員会のイラストは異世界アニメあるあると言いながら、イラストとしてはそれを守っていない。ただ、ハーレムモノであることはきっちりと描かれている。
後、ハーレムモノは何も男性に限った要素ではない為、目線使いはBL的手法かと思ったが、どうなのだろうか。

主人公が玉座に座り、美女をはべらす構図で描かれたBL作品があったので、比較すると“目線”という点では視聴者側にはある。

ただ、視聴者側の視線に対して反応を見せている節もあり、なろう系とは違って見えてくる。ここに関しては、まだ資料等を集めて、整理していく必要がありそうである。

なろう系と一般作ではハーレム感に対してズレがある事は明確に見えている。それがエロゲーというアダルトコンテンツと比較しなくとも。

次はビジュアル面以外ので、この差を語っていきたい。

■本当は面倒くさいハーレム

先ほどからハーレム、ハーレムといっているが、そもそもハーレムと何か?

Wikipediaによれば、イスラム社会における女性の居室とある。それが変移して、更に非イスラーム世界に広まったことで甘美な世界として広まっていった。そして、日本において「ハーレムもの」というカルチャーで再輸出している。

ハーレムとはある意味では、「なろう系」と言うだけで馬鹿にしている部分があるように、その変化が似ている。本来は「一夫多妻制のコロニー」というのが正確だったのに。

ハーレムを「一夫多妻制のコロニー」として見た場合、これを簡単に築くことはできるだろうか。そして、維持することは可能だろうか。

そもそも、近年のラブコメに対して、付き合い始めという過程を飛ばしてスタートしていることと語られていた。


言われてみればそうである。

これに関しては私自身前回の記事で、八尺様のエロは母性に通じるとも考えていたが、その点はあまり意識していなかった。

ハーレムも行動の結果に作り上げていくモノである。
例えば、『異世界迷宮でハーレムを』では書籍1巻のラストでようやく、一人目の少女を手に入れている。『八男って、それはないでしょう!』では極端な話の解釈となるが、権力と女達を得たことで、兄を手に掛けることにもなる。
なろう系ではないが、『School Days』においては「Nice boat.」の一言である。(余談ではあるが、『School Days』を始めとするOverflow作品の家系に関してはエロゲー屈指の業の深さでもある)

なろう系の作品の一部では、ハーレムの面倒さが描かれている。

ただ、それは付き合い始めという過程をしっかり描かれているだけの話。語られていたように、近年では過程を飛ばして結果から描かれることが、これと反しているだけ。
だからこそ、なろう系とハーレムの相性が悪さを感じた点である。

そもそも、ハーレムでなくとも、戦国時代の後継者争いというのは歴史が弱い人でも、日本に生きていれば様々なドラマや知識で感覚的に理解していること。ハーレムを持って、行き着く先は、幸せでない事は歴史的にも想像しやすい話でもある。

■まとめ

なろう系とハーレムというのは、書籍化された表紙でもしっかり描かれていない。ただ、それはある意味では些細な問題かもしれない。

そもそも、他人の嫁に対して好意を抱くというのは読み手としても難しい。しかも、そういう描写がしっかりすればするほど、憧れというのはヒロインよりもハーレムを持つ存在への憧れに変わるのではないだろうか。

だからこそ、なろう系ヒロインの知名度が上がりにくく、逆に男性である主人公に目が写りやすい。その結果が表紙にも主人公が描かれることになるのではないだろうか。憧れの対象、または読者の分身として。

また、この認識というのは、なろう系を多く読んでいると不思議にならないかも知れないが、一般読者からすればズレはあるだろう。

自分は漫画作品である『終末のハーレム』は未読だが、他の漫画作品でこういったハーレムに近い作品は、サスペンス要素が強い作品が多い印象がある。また、ラブコメにしても誰かを選択するという流れも、少し前から見受けられる。まあ、近年ではそれも変わってきているのだが。

そして、そういったなろう系あるあるネタは一番始めに話題にした、きまぐれ委員会同様、インターネットミームとして語られている。それというのは単体作品での魅力ではなく、なろう系としての全体での魅力でしかないのかも知れない。

このズレがなろう系においてハーレムという概念すら、また別物に変えているのかもしれない。

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