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【漫画レビュー】紙山さんの紙袋の中には ~原作を食ったコミカライズ

『紙山さんの紙袋の中には』(漫画:江戸屋ぽち 原作:江ノ島アビス )のコミカライズが自分の好みが色々と入っていたので買って読んでみました。
冒頭から好み自体は満たしてくれたけど、読んでいる内に何かモヤモヤとした感情が湧き上がって、1巻後半は楽しく読めなかった。

ひとまず、作品の内容、あらすじに関しては、間違いがあっても仕方が無いので漫画が連載しているページから引用させてもらいます。
また、この作品は同タイトルのライトノベルが原作となっています。

高校生・小湊波人は、入学初日のホームルームで紙袋を被り常にびしょ濡れのヤバい女子の後ろの席になってしまう。

人見知りで恥ずかしがりやな女子・紙山さんや面倒見がいいが制服にただならぬこだわりを見せる委員長新井陽向、

魔法少女のパネルと喋っている天野春雨というどこか残念な美少女たちと『会話部』という部活を立ち上げることになり――。

ちょっと残念な青春ラブコメディ、開幕!

さて、このコミカライズを読んでいて、モヤモヤした気持ちが明確な感情として、芽生えたのがこのコマであった。

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出典:漫画:江戸屋ぽち 原作:江ノ島アビス 紙山さんの紙袋の中には(第3話) ホビージャパン

気になって調べたが、原作の方にはこのような演出はなかった。
それ以前に、この少し前の場面はコミカライズにも描かれているが、原作にはこのようにある。

 ふと隣に視線をやると、そこには、俺と同じ真新しく、そして俺よりもびしょびしょに濡れた制服を着て、頭には紙袋を被った女子高生が座っている。
 ――端から見たら、俺たち……恋人同志にでも見えるのだろうか?
(中略)
 答えはこうだ。
 カップルには見えない。変質者の集会に見える。

出典:江ノ島アビス 紙山さんの紙袋の中には 1 ホビージャパン

このようにコミカライズでのちくわ大明神ばりの唐突な第三者の登場は、物語上成立しない。そもそも、この原作のシーンはコミカライズでも描かれているのにだ。

なぜなら、端からはカップルでも友達でもなく、変質者の集会に見えると感じている。それなのに第三者が2人の友情を感じ取って友達と断定して話してくることは、それ以上の変質者となってしまう。

確かに物語としては無理な展開だが、ギャグとしては成立している。読み手もそれは分かってはいる。尚且つ、恐らくモデルになった芸人のテイストでも、それは分かる。
(しかし、旬の芸人をネタに出しては時期がずれた時に、それが分かるかはまた別問題ではあるが)

再度言うが、このギャグは原作にはない。むしろ、この場面はギャグで茶化こともせず、2人でどうであれ友情を感じ取った所である。だから、この演出には違和感になり、コミカライズ担当の作風となっている。

自分も原作はある事を知って読んでいたが、原作を読まずにコミカライズから入っている。それでも、先のコマが明らかに漫画家によるモノだと感じていた。

なぜなら、このコミカライズは漫画家固有のテイストが1話冒頭から、かなり入っているからだ。例えば、特定の漫画キャラに似た絵柄を出すなど、漫画でしかできないネタをかなり入れ込んでいるからだ。そして、この第3話で完全な原作以外の異物と認識させられた。

また、この異物感はこの作品のテーマである、残念な美少女たちの青春ラブコメディから考えても目立つ話。そもそも、話に関係がない第三者の乱入は普通に考えれば、異質であると同時に下手をすれば、そのテーマすら壊しかねない。

これは「寺生まれのTさん」といった物語を無理矢理完結に結びつける、デウス・エクス・マキナになりかねないからだ。

このコミカライズはこういった原作を食ったシーンが多い。同じ第3話に出てくるジュースの銘柄という小物であっても原作を無視して、漫画家のギャグにしている。ただ、それと同じく原作を超えている箇所も多い。

それは原作の展開をなぞってはいるが、漫画用にかなり大きく改変されている点だ。それが出来るだけに漫画家は原作を知り尽くしている感がある。

また、今まで語ってこなかったが、このヒロインは紙袋を頭から被り、長身で、汗か何かなのか常に濡れていると、尖った好みのてんこ盛り。
しかし、これが文章である原作では、なかなか魅力が描き切れず、絵に頼ることが大きい。絵で見せることで、初めて成立するといってもいい。
原作もライトノベルであるから、絵による補完がある。

そういった絵で魅せる作品といえるだけに、この漫画が原作があると知っていても、原作の無い漫画を読んでいるような気がしていた。ここも漫画用に改変された結果ともいえよう。そして、話だけでなく、絵で魅せる構図も話に合わせて展開している。
だからこそ、原作を超えていると感じてしまう。

それでもコミカライズ版ではテーマを無視したギャグは、異物感が大きいが。

ただ、これは原作側の構造にも少々問題がある。この作品の試し読みでも分かるのだが、web小説のように短いエピソードの集合体で構成されている。原作は話数でも区切られているが、その話の中でも更に短いエピソードタイトルが示されるほどだ。

そのためコミカライズの1話もこの短いエピソードを元に描かれているため、1話だけで話の展開が綺麗に完結している。ここは他のライトノベル原作の作品にはない感覚である。

しかし、昨今のweb小説、得になろう系と呼ばれるコミカライズ作品では逆にこういった構成にはなっている。そして、更にこれらの作品がアニメ化した場合、この短いエピソード集合体が少し違和感となってくる場合もある。

それもあってか、このコミカライズでは話の展開を繋ぐ点で漫画家の芸風が補われている感もある。

では、この原作はweb小説なのか?
調べると、この作品は第13回HJ文庫大賞、受賞作とある。この第13回はデータ投稿のみの約10万字ほどの応募作品でまとめられた作品で競われたようだ。最近のような、小説投稿サイト内で競われた小説公募ではない。

それでも、web小説のように短いエピソードの集合体で作られている。ただ、応募条件にはウェブ上での連載作はオッケーだけに、元々がweb小説版があったかまでは軽く調べてもわからなかったが。

ただ、短いエピソードの集合体はコミカライズ向けに優れた作品ともいえる。そして、癖の強く、絵でもインパクトもある。それだけに、受賞に至ったのではないかと考えてしまう。

ともかく、『紙山さんの紙袋の中には』のコミカライズは原作はあって、ない気がする。それは始めに読んだ違和感、漫画家の芸風が強いことにも繋がる。

そもそも、このコミカライズを担当している漫画家、江戸屋ぽちはこれまでの多くのコミカライズをされている。それだけに、原作小説から漫画への優れていた再編集能力を持っていることは作品からも感じられる。

そして、この原作は小説公募から出てきた、新人作品である。それだけに荒削りの部分もあるだろう。それを多くの作品をコミカライズしてきたベテランの漫画家にかかれば、荒削りを調整され、こうなるのもある種、仕方がない気もする。

このコミックの後書きには漫画家はネーム段階で、原作者に確認を取っており、その内容にダメ出しを喰らわないかと心配していたと記載がある。一部では原作無視した展開がある以上、そう考えるのも当然だろう。

それでもこのように単行本という形となっているので、原作者も認める無い様とはなっているのだろう。また、それは編集をする出版社サイドも同様であろう。

それだけに、このコミカラズで原作を食った内容だとしても、これは漫画家だけの話ではない。大きなコンテンツへとしようとする、作品の権利とは別の出版権を持つ出版社サイドの話なのだ。

これは以前にも語った事ではあるが、新人作品をコンテンツとして作り替えてしまうことは、この作品に限ったことではない。

さて、今回タイトルでも【漫画レビュー】と銘打って語ってきたが、このコミカライズでの問題点のみしか語っていない。
総評を語るのなら、良い作品である。そして、コミカライズとしても原作リスペクトしており、出来は良い。

ただ、意図的に漫画家のオリジナルと、本来の原作のオリジナルを出して来ているだけに、読んでいての違和感は大きい。これが場合によって持ち味を活かし、別の場合では殺して、読みづらくしている節もある。

ただ、この点に関しては、コミカライズのやり方に問題があるようだ。

記事内では、今まで原作のコミカライズと語ってきたが、実際の所は今と昔ではそのニュアンスは漫画家の現場ではズレて来ているのかも知れない。この作品からも、このズレというのは感じられる。

それが先にも語った、漫画家のオリジナルと原作のオリジナルである。そして、そのズレに対して、調整役がいない。

冒頭で示したコマのように、作品のテーマを壊しかねないギャグ展開であり、本来、編集が止めて然るべき話である。時事ネタは今はいいが、長期コンテンツを想定するには適していない。

最近は10年、20年前の作品でもいまだ読まれることが当たり前になっている。今だけでいい作品作りなら、これでいいが、このネタは10年先も読まれる事は意識していない。この元ネタとなった芸能人にしても10年先まで現役でいられるかなんて、怪しいモノである。
(まあ、その人気で朝の特撮番組でも本人役で出てきたりもしているのだが)

それだけに編集としても、安易な時事ネタを止めさせるべきではなかったのか。この状態が許されているのは先のTweetにもあるように漫画家が自ら原作者とやり取りして、その中間には誰もいないことを示しているのではないだろうか。

余談とはなるが、手塚治虫の作品でも旬の芸能人が出てきているが、判ごとでその人物が書き換えられることもある。それは「時代背景」に合わせたアップデートであり、作中のネタだけに限らず話の展開にも至っている。


確かに、このコミカライズ作品は出来は良い。だが、原作を感じさせ、感じさせない違和感が常に付きまとっている。それを突き詰めていくと、今日のコミカライズが原作ありきではなく、漫画家主体のモノになっているのが明確になっていると感じた。

これは漫画家自身の証言もあるし、従来であれば編集も制御していたであろう部分が感じられない点もある。

それを初回読んでいた感じてしまった以上、自分にはこの作品が楽しめないかった。ただ、そこを気にせず再度読み直して、楽しく読もうとしたが、かえって意識してしまった。だからこそ、こんな文章を書くことにもなって、更にそういった部分を見つけようと深読みしてしまった…

まあ、『紙山さんの紙袋の中には』を楽しく読むことに関しては、また日を改めることとします。

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