『86-エイティシックス-』の小説として優れた点はアニメに不向きな点である
■『86-エイティシックス-』がTVアニメ化が決定してから、先日書いた記事のPV数が倍増していた。
この作品を読み終えて後で、感じた違和感に対して検索しても解消してくれる記事がなかった。だからこそ、自身でその違和感の正体を掴み書いた訳であった。
ともあれ、自分と同様な違和感を持った人が見に来た人がいるからこそ、PV数の増加に繋がったと思っている。
ただ、その全体PV数は大したレベルではないのですが。
それでもTVアニメ化が決定してからのPV数増加は明らかである以上、その重要、ブームに乗って、前回と同様な内容で語りたいと思う。
始めに
■今回の書く内容はこの作品の小説としての優れた点、アニメに不向きな点である。これに関しては前回の記事を書く際にも書きこそしなかった思っていたことで、人気的にはアニメ化はするだろうが、アニメ化に向かない作品とは感じていた。
また、このことは出版社も分かっているのだろうと思う。
だからこそ、『86-エイティシックス-』のTVアニメ化決定の報を見ても、それを読み取ることが出来る。そこに関しては後で語ることにします。
また、自分は原作1巻以降を読んでないため、1巻時点のみの内容で考えいくことなります。また、後でも書きますがが恐らくアニメ化に当たっては、3巻までの内容と予測しているため、今回の話をするに当たっては大きな問題になることはないとは考えています。
1.ロボットモノとしての不向き
■前回も触れた、本作の兵器、「M1A4〈ジャガーノート〉」。戦車の型番を丸パクリであるが、この兵器はいわゆる多脚戦車である。また、敵側も多脚戦車である点は同じである。説明は省きますが、どちらも「無人機」という触れ込みである。
多脚戦車で無人機というと『攻殻機動隊』を思い出す人もいるだろうが、この作品ではそれほど優れたモノでは無い。
作者自らもコンセプトを駄作機として描いていることを明言している。
さて、この多脚戦車はロマン溢れた兵器ではあるし、TVアニメでは向かない。なぜだろうか。
『攻殻機動隊』でも多脚戦車は人気キャラクターとしてあげられる存在である。だが、他の作品で多脚戦車を見た事があるだろうか?
数少ないながらも存在してはいるが、有名ロボットアニメでは多脚戦車というカテゴリはほぼ存在しない。
理由は簡単だ。ロボットなら二本の足で済む動作を多脚戦車は4本以上の足の動きを描かないといけないからだ。
アニメにおいては労力の増加である。
また、4本以上の足の動きは馴染みがないだけに、動きを的確に描くのは困難である。恐らく、『86-エイティシックス-』においては登場するロボットは3Dで描かれることにはなるにしても、その描写は歩行という基本データがあるモノと違い、存在しないだけにゼロから作り出す事となり手書きとは大きく変わらないだろう。
そして、上手く描けば描くほど多脚の動きは虫に近くなる。そうすると虫を嫌う人にとっては嫌悪感をもたらすことになりかねない。
また、この動きでハイスピードな戦闘を展開させられれば、アニメとしての見栄えは難しいだろう。
この点がまずロボットアニメに向かない点である。ただ、設定としてはロマンに溢れている。好きな人には好きである。この作品の武器である。その武器が動きで見せる際は欠点となる。
■『攻殻機動隊』という参考例はあるが、こちらの多脚戦車はローラーで高速機動し、密集した都市内での戦いであったりと、兵器としての運用方法も違っている。一から十で参考になるわけでもない。また、人間らしいキャラクターで愛くるしさで異形の姿による違和感を軽減させている。
『86-エイティシックス-』でもそれらの要素はあるが、ただ箸休め程度である。
幸いなのが、戦闘描写自体は売りではない為、演出で誤魔化せる部分もある。どちらにしろ、アニメスタッフの腕の見せ所である事には変わらない。
2.映画を意識した作品作り
■この作品というか、作者はゲームや映画をかなり意識している。実際、それはインタビューからも明言している。
だから、読んでいても、映像を意識して小説、文章にしているのが分かる。
この作品の主人公とヒロインは直に会うこと無く、通信でやり取りをしている。その際、同じ場面でありながら、交互に主人公とヒロインの主観を入れ替えて描かれている。
映像的には、電話のやり取りで場面が切り替わるシーンのように感じた。
例に出すにしては古いゲームとはなってしまうが、『EVE burst error』では二人の主人公の視点を切り替えて物語を薦めるザッピング形式だが数回、同じ視点で物語が交わる場面がある。
そういった場面がこの作品からは感じ取れた。また、主人公とヒロインは直に会うことなく話が別の場所で進むことも同じである。
また、作品全体から映画、特に戦争映画などを意識しているため読み終えた後で、そういった映画を見た感覚になるだろう。
TVアニメには向かないと語っていながら、この作品は映像的であると褒めている。明らかに矛盾しているのように思うだろうが、TVアニメはゲームや映画とは違う。ゲームと映画は基本、1本単体で完結しているが、TVアニメは分割されて定期的な配信されている。
いくら映像的に見せていても、1本と分割というスタイルの違いから弊害となる。
もし、映画をTVアニメのスタイルの30分×3、4回で分割して放送した場合、同じ面白さを感じることは出来るだろうか。当然、出来ないだろう。
この作品は特に電撃小説大賞《大賞》受賞作、小説公募作だけに本来は1巻だけで綺麗に完結している。
だから、一冊全体の物語で感情をグラフ化にして、そこからTVアニメサイズに分割できる箇所を選定するのは難しいだろう。
それに週間であるTVアニメはその一話、もしくは前後編などでも同じような感情の起伏を作り、その話だけでも満足させる必要がある。そうでなければ、見えてこない楽しみに対して、週間という時間を含めて待ち続けないといけない。
■ここでも古い作品を例に挙げるが、『機動戦士Vガンダム』に置いてシュラク隊という部隊が出てくる。
この作品を見たことなくとも、ガンダムというコンテンツに触れている人なら、ご存じの通り死亡フラグの代名詞のような存在。
実際、出てきた翌週には一人戦死、その後も連続で戦死、補充しても戦死。最終的には全員が死亡という、こう書くとネタのような話だがシリアスに描いている。
ただ『機動戦士Vガンダム』に置いてはシュラク隊だけでなく、敵味方、身近な人間すら同じように悲惨な死を迎える。シュラク隊だけがネタにされる分、まだ救いともいえるぐらいである。
しかし、この悲惨な死も1話の物語で効果的に見せ、全体を通しても意味を持たせている。TVアニメという長期のコンテンツで上手く演出されている。そのため、主人公らの成長、また視聴者にとっても意味のあるモノになってくる。
それがいまだにシュラク隊が語られる結果でもある。
■『86-エイティシックス-』もこのシュラク隊に似ていて、死から間逃れない存在だが、映画的なペース配分で死のタイミングが出てくる。
その前に少し話は変わるが、ラノベのアニメ化において、他の作品などを見ても4話で1巻分相当がベストな配分だと感じている。ただ、1巻1話でやる場合も1巻を1クールやる場合もあるので、作品によっては配分は変わってくるだろう。
『86-エイティシックス-』もアニメ化で12話3巻相当と考えている。1巻を12話でやるには水増ししすぎで、2巻、3巻は上下巻のなので、2巻まではまずないだろう。
一応、2期も想定して計画なら、原作ストックも3巻以上という選択肢はないだろう。
また、アニメ化を知らせるPVでも、2巻、3巻の表紙が映っている。
1巻4話と想定した場合、『86-エイティシックス-』での例に挙げたシュラク隊のような展開、もしくは「マミる」のは2話ラスト、3話冒頭になるだろうか。
少々、急な展開ではある。ただ、2時間程度の映画で見れば起承転結の転なる場面なのでこのタイミングでも問題はない。
言いたいのはTVアニメとして盛り上がるタイミングとしては2話ラストでは少々急であることだ。「マミる」とスラングで書いたが、そのアニメでも作品の転換期は3話ラストからであった。
2話ラストではアニメのみの視聴者を掴みきれるだろうか。
■映画的にみれば優れた映像的な内容、ペース配分も、TVアニメでは欠点となりかねない。
他の作品でもそうだが、優れた原作であってもただなぞるだけでなく、TVアニメ向きに脚本を再構成する必要がある。
そして、ペース配分を間違うとこの作品が持つ登場人物の死が感情的に機能しなくなることになる。
特に映画的な作品をTVアニメに落とし込むのは難しい点と思う。
3.何処に作品の軸とするか
■この作品においてパクりとまでいわれて例に出されるが「コードギアス」シリーズである。ただ、この作品はそれよりもたちが悪い世界観である。単なる差別思想だけならまだしも、死すらも安い。
前回も語った通り、この世界感設定が成立するのはSFというよりは、もはやセカイ系である。
問題となってくるのは、この作品をアニメ化で何処を軸とするかである。「コードギアス」の重い世界観はロボットアニメとしてのスパイスとしている。だから、重い設定もロボットの軽快さでバランスを取っている。ただ、『86-エイティシックス-』はロボットモノではない。
かといって、重い世界感をどう売りにするかは難題である。
また、アニメ化というか、メディア展開とは作品をそのまま映像化する作業ではない。本来の層とは違うターゲット層に向けての発信である。
原作の販売促進も目的の一つである以上、まだ知らない層への売り込みは当然である。
そんなまだ知らぬウブな層に重い世界感をいきなり売りつけられても、見ている側も困るだろう。意外に重い作品はTVアニメでは向かない。いっそ、私が語るセカイ系で売るにしも、あまり娯楽としてのアニメには向かない。
また、この作品は1巻に置いてほぼ救いはない。1巻のラスト、エピローグに相当するモノがようやくの救いではあるが、物語の性質上はアニメ化した場合、このエピローグは最終回まで持っていきそうな気がする。そうすると1巻分の内容ではほぼ救いはない。(もしアニメの最終回、このエピローグ持っていくのであれば1話序盤に断片的に見せる手もあるだろうが。あくまで私の考えではある)
1巻4話と想定すれば、4話まで視聴者は救いの無い話を見続けることになる。2巻以降読んだことは無い自分だが、その後の展開も大差はないのだろう。なにしろ、この作品の真の救いとは1巻のエピローグといっていいからだ。このラストがあるから、読者にとっても2巻以降もこの悲惨な世界の物語を安心して読めるのである。
(一応、ネタバレを考慮しているので、1巻のエピローグに関して詳細は省いております。ここに関しては前回の方では書いてはありますので、合わせてお読み下さい)
この作品としては良い点として語られるこの点も、アニメに置いては欠点となりかねない。
だからこそ、TVアニメ化に到っては何処に作品の軸とするか決めておかないと、見ている側は重い話を延々と拷問のように週間事に引きずる結果になってしまう。
既に多くのファンを抱えているのなら、ファン向けの映像化でも売り上げは期待は出来るが、この作品ではそこまで人気はない。
4.バーターとしてのリスク分散
■散々、アニメ化に向いてないと語ってきたが、このリスクは出版社、関係者も理解しているはずだ。その根拠はこの情報が発表されたタイミングである。
『春のラノベ祭り!『キミラノ』1周年大感謝祭』で発表されたのだが、それと同時に『戦闘員、派遣します!』のアニメ化も発表されている。
比較すると対極的な作品である。レーベルも違うが、出版社自体は今となっては同じKADOKAWAである。
出版社が同じでラノベのイベントでの同時発表は驚く点ではない。
ただ、ヒットしたアニメ実績がある原作者による『戦闘員、派遣します!』のアニメ化は視聴者だけでなく、資金集め的なビジネスでも安心感がある。ラノベ好きの中では話題の『86-エイティシックス-』ではビジネス的には魅力は大きく差が出ている。
大ヒットを記録した『新世紀エヴァンゲリオン』は企画段階で「決して売れないだろう」と言われ続けた。そもそも、ロボットモノでは定番である玩具メーカーはスポンサーになっていない。スポンサーであったセガはゲーム会社である。
『86-エイティシックス-』の内容、キャラクター商品として価値のないロボットなど、『新世紀エヴァンゲリオン』に似ている点が多い。
あらすじだけでも差別意識が蔓延した世界、大量に死者がいて出番が無くなるキャラクター達、物語的にも商品として売れない四足歩行の戦車などなどでは、作品として優れているのは分かっていてもアニメ化向きではない内容では資金集めは難しいだろう。
この点を考えると『戦闘員、派遣します!』とバーター、抱き合わせ、交換条件でもない限りは今の制作委員会方式に依存するアニメ製作では企画を通すのは難しいだろう。
また、宣伝等などを同時進行で行えば、かかる労力も軽減できて得となるだろう。つまり、2作品を一つの企画として売り出せば、リスクは相殺されるのである。出版社自体が同じであるからこそ、出来る芸当である。
大体、真に人気作であれば単体でアニメ化を進行していても問題はないはず。だが、このタイミングで同時に発表されたわけである。
これを見ても『86-エイティシックス-』のアニメ化は先に語った内容をリスクと捉えていると考えられるだろう。
ただ、『86-エイティシックス-』はアニメ化されるだけの良い作品ではある。作品の魅力とそのデメリットを考えれば、このようなバーター的な展開でなければアニメ化は難しかったのだろう。
5.文学としてのラノベ
■『86-エイティシックス-』は電撃小説大賞《大賞》受賞時点でラノベだけど純文学よりとして売りたいという路線が見えていた。むしろ、ラノベの地位を高めたいという意図なのだろうか。その結果か、宣伝的にもそれ以外の評価を付けさせない土場を作り出している節もあるように覚えた。
そういった出版社サイドの意向も含めると、今回のアニメ化はスタッフ泣かせな作品となりそうである。
ただ、ラノベだけど純文学よりになることは商品としてのキャラクター性は失い、本来のアニメなどのメデイア展開を阻害することになる。
ここは『OBSOLETE』と比べると分かりやすい。明らかにコンテンツとして優れている。何しろ、プラモモデルなどの商業展開を同時にした上で、アニメの放送スタイルもYouTubeでの配信であり、1話あたり12分ほど、時系列も断片的とアニメという概念すら「OBSOLETE(時代遅れ)」にした。
ただ、『86-エイティシックス-』と比較するには企画段階で全然違うのであまり意味はないが、アニメに適しているかの点ではこの差は大きい。小説公募から出てきた文学作品とコンテンツとして売りに出てきた商業作品である。畑違いである。
特にここ最近の電撃小説大賞から出てきた作家のその後を考えると、文学界に与えた影響は大きい。
ただ、ラノベはキャラクター性で商品を売るというキャラクター小説である。作品だけでなく、「長門有希」や「綾波レイ」などの単体がコンテンツとして成立して、作家以上のビジネスが出来る。
文学作品にしてしまうと、コンテンツとしての魅力が欠けてしまう。本来ラノベが持っていた強みを文学としての側面で否定している節がある。
自分にとってラノベの位置づけは文学では無く、漫画と同じベクトルにあるべきと考えている。
ラノベを文学いうのであれば、アニメ化など捨てていっそハリウッドに売り込んで実写化してもらう方が建設的である。まあ、『ソードアート・オンライン』はハリウッドで実写化が進行しているのだが。
ともあれ、文学としての側面はアニメ化を阻害していると見る事もできる。
最後に
■ラノベ作家ほど、実力よりも企画力が求められる職業であると自分は考えている。何しろブームに左右される部分が大きいからだ。そのためにもリサーチ力が無い人は無理である。もしくは一作品だけしか生み出せない作家になってしまう。
一昔前90年代であれば、あかほりさとる氏を初めとして執筆した作品は数多くメディアミックス展開していた。確かに今のラノベも数多くアニメ化されているが、人気を示す一つの到達点になっている。90年代であればメディアミックス前提な作品作りであった。
何も当時が正しいと言いたいわけでは無い。ラノベというものが認知され、個性、自由度、文学性が高くなっている。
ただ、その反面アニメ化がしづらいという矛盾も生じてきているのは一昔前では考えられない事実である。今回、冷静に考えて、まとめてみると面白いことだと感じた次第であります。
また、作品だけでなく、キャラクターも商品として売るスタイルに関しては、「Cygames」が今では自社ですべて完結できる点も何か時代が大きく変化したことに気づかされる事実ともついでに思った。
※2020/8/8 この記事を読んだ人の反応から一部分かり難かった点を追記しました。
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