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④サブカルクソ女と呼称される23歳女性

"サブカル"と自称することがどうも嫌いで、自虐の為に使ったりするけど、自分のことを「サブカルチャー女」として認めることにやや抵抗がある今日この頃。

杉田は私のことを「サブカルクソ女」と呼称することがややあるらしい。マジやめてほしい。
傷つきもしないしわざわざ怒りもしないけど、なんかムカつくから。そして杉田に言われると、どことなく核心をつかれている感じがして、ンググとなる。悔しい。

この核心というのは、「一風変わった人間になりたい」という私の奥底の本心の事だ。コレを見透かされた上で、「サブカルクソ女(笑)」なんてあだ名を付けられている気がする。
いや、杉田はもしかしたらそんな事考えてないかもだけど。

普通にちょっと恥ずかしいんだよね、自分がサブカルというジャンルに部類分けされるのが。
私は知っているんだよ。周りの「サブカル」になりたがる人達のことを。
私と同じで「一風変わった人になりたい」という念慮が滲み出てる人間が世の中にはごまんといて、それらは皆んな、取ってつけたような偽物のサブカルチャーを掲げ、身に纏う。
私はそんな人間を毛嫌いするので、同じ部類にされたくない!と思う。だから「サブカル」という言葉を自分には使わないようにしている。

『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』というドラマが大好きなんだけど、その中で春太は
「どこにでも居る子になりたくない子って、どこにでも居るよ」
と小夏を諭していたなぁ。すごく印象的だった。
それぞれがアイデンティティ(自己)を探して生きているのは当然だから、それぞれが「個性」をさがして、身に纏って生きていく
けど中には、「個性」と「人と違うこと」を履き違えてる人がいて、「人と違うこと」即ち個性ではない。
「人と違うこと」というレッテルが出現した今、すでにこの言葉自体に矛盾が起きているのだ

だって、どこにでも居る子になりたくない子は、「人と違うこと」という言葉の中にある、同じ様な物をしたり、見たり、聴いたり、着たりするのだから。ここで言う「人と違うこと」と言う言葉は、すでに死んでいる。

そういう人って「サブカル」という文化に頼りがちだから、結局皆んな同じに見えてしまう。結局話が「サブカル」に立ち戻ってくる。
そんな人たちの中で、身につけている文化それ自体に魅力を感じている人は少ないと思う。レッテルに恋をしているのだと思う。

私は自分の個性をサブカルに依拠するような人間になりたくない。だから杉田にサブカルクソ女と言われている事にアイロニーが込められていて、面白くて悔しい。

まあ要するに、「サブカルという単語で私を一括りにするな!」ってことや。
私だって、どこにでも居る子になりたくない子の一人だよ。それは認めます。だからこそサブカルクソ女を認めたくもないし、自分でそう思いたくもない。私は本当は「普通の子」だってわかっているから。
23にもなってサブカルクソ女ってあだ名ついてるのヤバすぎる。ほんとやめてほしい。普通に痛いから。私のことをサブカルって言わないでくれよ。

今日は小夏に会える。!ヤシマにも会いたかったケド
最近この二人ばっかり。でもいい!好きだから。
好きな友達とだけ会えばいい。
そろそろたいらももつきにも会いたいわねえ〜
宮城にも会いたい!最近会ってない!
会いたい人ばっか。最近仕事しかしてないしなぁ

人と会いたい、遊びたい〜てかOBライブのスタジオが迫ってるな?!
よしよし、色んな人に会えそうや

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