【短編小説】浄夜 1
車内は平日の昼間だというのに、いささか混雑していた。
私は空いている席を見つけ、腰をおろしネクタイを緩めた。隣の席に妻が座り、小さなため息を一つ吐く。きっとこの暑さのせいだろう。今年の夏は例年比べて一層暑くなる、昨日の天気予報ではそう解説していた。
電車は御茶ノ水から水道橋へと向かっていた。ビルに掲げられた看板が窓の外をゆっくりと通り過ぎていく。妻はもう一つ、ため息を吐いた。
「疲れたか?」
私の問いかけに妻は無言で首を振って窓の外をぼんやりと眺めていた。窓の外の景色は段々と流れる速度を落とし、遂には全く流れることを止めた。
ドアが開き、乗客が乗り込んでくる。ベビーカーを引いた、まだ若い髪の毛を茶色に染めた女性が、子供になにか言い聞かせながらドアと手すりの間に滑り込んだ。
その後ろから背の低い老婆が大義そうに車内へと足を運んだ。その足取りはひどくゆっくりで、足を痛めた犬が飼い主に無理やり引っ張られて歩いているように見えた。
老婆は私の前に立つと車内をぐるりと見回した。私も老婆につられ車内を見回したが空いている席はない様子だった。
私は席を譲るべきか悩んだ。もちろん私はまだ若いし、常識的に考えれば席を譲るべきだろう。しかし私は疲れていたし、老婆の見せつけるような弱弱しさに、席を譲ろうとはどうしても思えなかった。
隣を見やると、妻はまだぼんやりと窓の外を眺めている。老婆のことなど目に入っていないようだった。私はなんとなく気まずい気分になり、寝たふりでもしようと目をつむった。
先に乗って座ったのだから私が気を悪くする必要はないのだともやもや考え続けていると、隣の乗客が立ちあがる気配がした。
目を開けると私より一層若い、学生であろう男性が老婆に席を譲っていた。そうだ、若いやつが席を譲るべきだとやっと心が落ち着いたが、老婆と席を譲った男性が二言、三言なにやら話しているのを聞いていると鬱陶しく感じた。
なぜ私がこんなにも嫌な気分にならなければいけないのだろう、いやいや私がいけないのか、次にお年寄りが乗ってきたら席を譲ろうなどと一人考えていると妻の手が私の手の上に乗せられた。
まあ、しょうがないだろう。私は妻の手を優しく握り締めた。
妻の手はぞっとするほど冷たかった。
私と妻と友人は大学時代から仲がよかった。どこに行くでも、なにをするでも三人一緒だった。キャンプも三人で行ったし、ゼミのレポートも三人で力を合わせて完成させた。
大学を卒業し、私と妻が婚約をしても三人の関係は変わらなかった。友人は私と妻の暮らすアパートに来ては私と酒を飲み、妻と語り合った。
私が妻と結婚することを友人に話したのは大学の卒業式でのことだった。三人の関係が崩れてしまうのではないかとなかなか言い出せずにいた私は酒の力を借りて友人にそれとなく妻のことをどう思っているのか尋ねた。
友人は妻のことはいい友達だと言った。
もちろんお前もだ。おれたち三人でいれば怖いものなんてなにもない。就職してもまた三人で遊ぼうぜ。
友人のその言葉にますます私は言いだしづらくなってしまった。ただ友人が妻のことを友達だと言ってくれたことに少なからずほっとした。
私は意を決して友人に告げた。
おれはあいつのことを愛してる。結婚したいと思っている。
友人ははじめ驚いたような顔をしたが、それはいいと私の肩を叩いて喜んでくれた。
お前たちが結婚すれば、おれはお前たちの家に遊びに行きさえすればいつでも三人でいられるじゃないか。
私は友人の言葉に安心すると同時に心の中が罪悪感で満たされていくのを感じた。私が三人の関係を崩したのだ。信頼と友情で結ばれていた三人の関係に私は愛を持ち込んでしまったのだ。良好な関係が崩れる時、それはいつもそこに愛が持ち込まれたときなのだ。
私は友人に何度も謝りながら、今まで通りの関係でいようと無神経な申し出をしていた。友人は笑いながら、あたりまえだと私を励ましてくれた。そして実際に、私と妻が結婚しても私たちの関係はなにも変わらず続いていた。
三人で旅行に行き、クリスマスや誕生日も三人で祝った。彼が私たちに気を使うこともあったし、私たちが彼に気を使うこともあった。それでも三人の関係は以前と変わらぬまま良好に保たれていた。そしてそれがいつまでも続くはずだと私は信じていた。きっと妻もそうだったろう。彼もまたそうに違いない。
新宿で地下鉄に乗り換え二十分ほどで私たちは自宅のある駅へとたどり着いた。階段を上り地上へ出ると熱気が体にまとわりつく。汗が肌を濡らしはじめ、足が急に重たく感じた。
家までは歩いて十分ほどである。少し日が陰るまで喫茶店で時間をつぶそう。私の提案に妻はあっさりと賛成した。妻もこの熱気の中を歩いて帰る気はしないようだ。
喫茶店は同じようなことを考えている人が多いのだろうか、混雑していた。煙草を吸える席がよかったのだが喫煙席はいっぱいで、しょうがなく禁煙席の二人掛けのテーブルになんとか席をとった。妻はとても疲れて見えた。
レジでアイスコーヒーを二つ注文してそれを受け取ると、狭い店内を身をよじるようにして席へ戻った。私はブラックでそれを飲み、妻はガムシロップを半分ほど入れストローで何度もかき回していた。店内には小さな音でジャズが流れている。客の話声と混ざってそれは少し不快に感じられた。私たちもなにかを話すべきだった。沈黙は私たちにとって珍しいことではなかったが、今は話すべきことがたくさんあるはずである。思い出話だ。私と妻と友人で過ごした過去を思い出し、二人で語り合うべきだった。
しかし私たちは疲れていたし、なにより落ち込んでいた。友人との思い出を言葉にすれば、それが一つずつシャボン玉のように消えてしまいそうで口に出すことはできなかった。存在の消えてしまったものから思い出まで奪い去ってしまうのはとても残酷なように思えた。
私は妻の言葉を待った。妻から発せられれば、少なくとも私から発するよりも、リアリティがあるような気がする。存在をなくしてしまった友人に必要なのは確かなリアリティだろう。
しかし妻はアイスコーヒーをぐるぐるとかき混ぜるだけでなにかを話そうとはしなかった。
客が何組か店を出ていき、何組かが入ってきた。私はアイスコーヒーを飲み終えた。妻のグラスには薄くなったコーヒーが半分残っている。
「そろそろ行くか」
私は妻のグラスを手に取り、自分のグラスと共に片づけた。そしてそのまま店を出た。妻は私の後に従った。
「暑いな」
日は傾いていたが外気はまだ熱く煮たっていた。湿度の高い空気のせいでなんとなく息苦しかった。私は暑さを振り払うように歩きはじめた。妻が小走りで私の隣に並び、私の手を取った。私は歩く速度を緩めた。
「疲れたね」
妻が小さく呟いた。私は「そうだな」と言って妻の手を握り締めた。
「帰ったら少し休んで、それからごちそうを作るね」
「あいつの分もか」
「そう。彼の分も」
妻は小さく笑った。そして「彼の話をしましょう」と言った。私もそれには同意だった。
「そうだな。あいつの話を、朝までしよう」
妻は一つ、大きく息を吐いた。
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