【短編小説】浄夜 6
妻は話し終えると長い溜息を吐いた。時間が止まってしまいそうなほど長い長い溜息だった。
私は壁に掛かっている時計を見た。いつのまにか日付が変わっていた。夜は音もなく更けていく。私はすっかり薄くなってしまったウイスキーを飲みこんだ。喉が大袈裟な音を立てて鳴った。頭がうまく働かなかった。少し飲みすぎなのかもしれない。
私は空っぽのグラスにウイスキーを注いだ。そしてそのまま口にした。
「子供は産むつもりなのか?」
妻は黙ったまま頷いた。
「オレも一緒にその子を育てろと?」
「わからない。それはあなたのことだから」
私はカッとなってグラスを妻に投げつけそうになった。妻は私の目をじっと見つめていた。私は持ち上げたグラスをテーブルに置いた。途端に全身の力が抜けた。このままベッドに行って寝てしまえたらどれだけいいだろう。全てを忘れられたら、朝になってこれは全部悪い夢だったと思えたら。
「なんで話した?そんなことを言ったらオレが堕ろせと言うと思わなかったのか?」
「産む産まないは私の決めることだから。それにあったことをなかったことにはしたくないの」
妻はいつになく自分の主張をはっきりと口にする。覚悟があるのか?なんの覚悟だ?私は一体どうすればいいのだ。もう考えたくない。出口が見つからない。
「お前はあいつのことを愛していたのか。おれよりも」
「あなたのことは愛してるわ」
私には覚悟ができていないのだ。妻と離婚することも、妻と一緒に彼の子供を育てることも。いや、こんなことすぐに覚悟が決まるわけないのだ。私には時間が必要だった。
「全て私が原因なの。私のせいなの。私の問題があなたにも、彼にも重荷を背負わせてしまったの。彼が亡くなったのは私のせいだから。だからあなたはあなたの好きにして。私はあなたになにかをお願いする立場にない。こういう言い方をするのは卑怯かもしれないけど、私は私の問題を解決する。あなたはあなたの問題を解決して」
私は疲れていた。へとへとだった。この話のどこに私の問題があるというのだろう。なんて自分勝手な言い分なのだろう。ここはどこだ?目の前にいる女は一体誰だ?私はなぜこんなところにいるのだろう。いつからここに迷い込んでしまったのだ。出口はどこだ?答えはどこだ?
蛍光灯の隙間から先ほどの蛾が顔を見せていた。私たちの間に入ってくるのはいささか憚られると思ったのかそそくさと蛍光灯の陰に隠れてしまった。
私に問題があるとしたら、いや、あるのだろう。妻が問題を抱えているように私にも問題があるはずだった。妻はそれに自覚的だっただけなのだ。私は自分の問題に無頓着すぎるのだ。
そもそも自分の問題に自覚的な人間がどれだけいるのだろう。自覚的である必要があるのだろうか。それとなく気付いていながらも見ないふりをしてなんとなくやり過ごしている人間がほとんどではないのか。それで案外うまくやっていけてるのではないのか。
ともあれ、今は世間一般のことを考えてるときではない。私自身の問題は置いておくとしても、私は自分の立場を決めなければならない。妻を捨てるか、彼の子と一緒に妻と生きるか。
「わかった。少し時間をくれ。今日は疲れた。頭がうまく働くときに考える。今日はもう寝よう」
「うん。ごめんなさい。もっと時間をおくべきだったのかもしれない。そうすればもう少しうまく説明できたのかもしれない。これじゃ、あまりに一方的すぎるね。でも、ううん、ごめんなさい」
私は席を立ち、グラスに残っていたウイスキーを流しに捨てた。きつい匂いが辺りにたちこめる。茶褐色の液体がシンクの中で渦を巻いていた。妻は椅子に座ったまままだワインを飲んでいた。
「もう寝よう」
私は妻に声をかけた。妻は私の言葉に素直に従い、グラスの中のワインを捨て、スポンジで軽く洗って水で流した。
水道が止まると部屋の中は不自然なほど静かになった。私は妻になにか話しかけようと思った。しかし適切な言葉はなにも思い浮かばなかった。それならそれでよかった。無理に言葉を発して取り返しのつかないことになることだってあるのだ。このまま黙っていた方が賢明だろう。
私は妻の視線を避けるようにそそくさとその場を立ち去った。後ろから妻の「おやすみ」と言う声が聞こえた。
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