【短編小説】浄夜 4

食器のぶつかるカチャカチャという音がリビングに響いている。私は二本目のワインを開け、グラス一杯分だけ飲んだ。なにかもの足りなかった。もう少し強い酒が飲みたかった。

私は春に買ってそのままになっていたウイスキーのことを思い出し、あちこちを探してみた。妻は私がウイスキーを探してうろいついているのに何の関心も示さず食器を洗い続けていた。

食器棚の中にそれはあった。私はグラスに氷を入れ、そこにウイスキーを半分ほど注いだ。茶褐色の液体が氷の周りを満たしていく。指でかき回して一口飲むと喉が熱くなるのを感じた。久しぶりのウイスキーの味だった。

最後にウイスキーを飲んだのはいつだっただろうか。きっと友人と飲んだときに違いない。私は会社の飲み会では強い酒は飲まない。酔った自分を見せられるのは妻か友人の前だけだった。酔いがさめた後、酔っていたときの自分を思い出すと自己嫌悪がする。特になにかをしでかしてしまうわけではないのだが、酔っていたときの私はあまりにも自分のことについて語りすぎてしまう。自分について語る人間ほど気持ち悪いものはないと私は常々思っている。そうなってしまった自分を考えるとどうしても恥ずかしくなってしまうのだ。友人はそんな私に笑って「お前は考えすぎなんだよ」と言った。

「好きなだけ飲んで、好きなだけ酔っぱらって、好きなだけ自分について語ればいい。それが人間にとって一番自然なんだ」

そんな友人も自分については多くを語らなかった。小説について、映画について、会社について、政治や社会について、彼はなんでも話題にしたが、自分のことはいつも口にしなかった。人間が自分のことを自分で語ることの不自然さを彼もまた感じていたのかもしれない。

それでも友人は私や妻が自分のことについて語るのを聞きたがった。私もそうなのだが、誰かが自分について語るのを聞くのは楽しかった。矛盾していると彼は笑った。自分では語らず、相手のことは聞きたい。私たちは都合のいい人間なのかもしれない。でも、だからこそ、私と彼とは心から信頼し合えたのだろう。

一杯目のウイスキーを半分飲み終えると自分が酔いはじめていることに気づいた。どこまでも内省的になっていく。感傷的になっていく。これも一時的なことなのだろうか。酔いが醒めれば、あるいは時間が経てばなにごともなかったかのように彼のことを忘れてしまうのだろうか。

いつまでもこの悲しさや虚しさが続いていくのは困ったものだが、この悲しさや虚しさを忘れてしまうと同時に私の中から彼が消えてしまうような気がした。この世界から消えてしまった彼の存在を確かめるためには私の中にある悲しさ、虚しさと常に向き合っていなくてはいけないのではないか。

私は彼のことを忘れたくなかった。私はこの虚しさを抱えて生きていく覚悟をしなければいけないのだ。

グラスの中のウイスキーは溶けた氷が透明な水の層を作ってゆっくりと漂っている。私は指でそれを乱暴にかき回し一気に飲み干した。強いアルコールの匂いが一瞬彼のことを忘れさせた。

私は煙草を吸うためベランダへ出た。湿度はまだ高かったが、気温は幾分下がっていた。エアコンの室外機から吹き出す生温かい風が足元を撫でる。あちこちのマンションやアパートから明かりがもれていた。酔いのせいかその明かりが瞬いて見える。

どこからかピアノの音が聞こえてきた。耳を澄ますとその音はぴたりと止んだ。バイクの走り去る音がその代わりに耳に響いた。

私は大きく息を吸った。夏の夜の匂いがした。なにも変わらないと思った。彼のいる世界といない世界の違いなんかないのだ。

空はぴたりと止まってまるで動かなかった。誰かの描いた天井画のようにそこに留まっていた。梯子を架ければすぐに登れそうな距離にあるように思えた。月だけが自然な色をしていた。

私は月を見つめた。月は私を慰めてくれた。その光で暖かく包んでくれた。月はいつでも私たちの頭上にある。いかなる心情のときでもその輝きは変わらない。その不変性が今の私には心強かった。彼もまた不変の世界へいったのだ。月と同じ世界に彼は在るのだ。そう思った。

私は煙草を消し、部屋へ戻った。

リビングへ戻ると片づけを終えた妻がワインを飲んでいた。私は先ほどまで飲んでいたグラスに氷を入れ、ウイスキーを半分ほど注いだ。椅子に座り、妻と向かい合う。妻は幾分疲れた顔をしていた。私はウイスキーを一口飲み、ため息を吐いた。妻が私を見る。

「終わったな」

私は独り言のように呟いた。その言葉は部屋の中を少しだけ漂ってからすっと消えた。妻は私から視線を逸らせた。テーブルの一点を見つめてからグラスを口に運んだ。

「いい人だった。かけがえのない人だった」

「でも、もういない」

照明の周りを小さな蛾が飛び回っていた。私が煙草を吸いに行ったときに入ってきたのかもしれない。蛾は照明に何度かぶつかると諦めて冷蔵庫の上に止まった。止まっている間も羽を上下に動かしていた。

私はそれを眺めていた。妻がなにかを話すまでそうしていようと思った。私には話すことがなかった。友人との思い出ならばいくらでも頭に浮かんできたが、それを今、口にして妻に聞かせる気はしなかった。彼との思い出は妻にはすでに既知のことだし、思い出話に花を咲かせることを妻が望んでいるとは思えなかった。

グラスの中の氷が溶けてカランと鳴った。その音を合図にしてか蛾がまた飛び回りはじめた。照明にぶつかって退き、弧を描いてまたぶつかった。そして蛍光灯に止まるとゆっくりと歩きだし、そのうち姿が見えなくなった。私は一口ウイスキーを飲んだ。

「私、子供ができたの」

私には妻の言葉の意味がうまく理解できなかった。彼女が発する言葉を間違えたのだと思った。そうでなければ私の耳がおかしいに違いない。

「なに?」

妻は私の目を真っ直ぐに見つめいていた。そしてはっきりと「子供ができたの」と言った。

私はそのことについてゆっくりと考えてみた。思いあたるふしがなかった。

妻を最後に抱いたのはいつだろう、もう思い出せないほど前だ。そのときに受精したとして、妊娠が発覚するまでこんなにも時間のかかるものなのだろうか。いや、私が単に忘れているだけなのかもしれない。私はいつか最近、妻を抱いたのかもしれない。

私は記憶の扉を一つずつ開けていった。しかし、そこには手掛かりとなるようなことはなにもなかった。妻は私を見つめたままなにも言わなかった。私がなにかを言う番なのだ。

「おめでとう」

私は全く見当外れのことを言ってしまった。他に聞くべきことがあるはずだった。こんなに疑心暗鬼のまま祝福の言葉を口するバカはいない。まずは落ちつかなくては。私はウイスキーを啜った。

「確認しておきたいんだが、バカな質問だとは思う、でも確認だ。その子はおれの子でもあるんだろ?」

妻は黙って首を振った。私はそれが否定を示す仕草だと受け入れることができなかった。

妻が私ではない他の誰かの子供を身ごもっている。とても容認できる事実ではない。

「それは誰の子だ?どういうことだ?説明しろ」

妻はグラスに入っているワインを飲みほした。そして「聞いて」と静かに言った。ワインのボトルをゆっくりとした手つきで持ち上げ、グラスに並々と注ぐと、またゆっくりとテーブルに置いた。コトンと小さな音がした。それから妻は話しはじめた。

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