【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 2

雨宮雪子の場合、それが起こったのは中学二年の秋だった。

その年の秋は雨が多かった。しとしとと降り続く雨が窓ガラスにいくつもの水滴をつくり、雨宮雪子はそれをぼんやりと眺めていた。

一つの小さな水滴にもう一つの水滴が重なる。大きくなった水滴は重力に従い、ゆっくりと窓ガラスを流れていく。水滴の流れた跡は外灯の光を受けてキラキラと光っている。無軌道なその光の粒子は目の中で小さく弾けては消えていった。

「あーあ」

両手をあげて背中を伸ばす。心地よい負荷が身体にかかる。

机の上に広げられた学習ノートにはいくつかの古語と雨宮雪子が描いた人物画がある。少女漫画を模倣したその絵は平安時代の衣装をまとった女だった。豊かな髪が川のように腰まで流れ、振り向いたその顔は遠くにいる思い人を見つめている。

「心あてにそれかとぞ見る白露の光添えたる夕顔の花」

雨宮雪子がそう歌うと女は

「寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔」

と歌い返す。

「えっ、えっ」

雨宮雪子は自分の描いた女を凝視する。そして椅子から立ち上がり、時計を見、ベッドを探り、部屋のドアを開けて外の様子を伺う。一通り辺りを探り終えると雨宮雪子は再び椅子に戻り、もう一度女を見つめる。

「夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えし縁にこそありけれ」

「えっ、えっ」

「光ありと見し夕顔のうは露はたそがれどきのそら見なりけり」

「えっ、えっ」

その声は確かに目の前の女から発せられていた。雨宮雪子は学習ノートを閉じ、窓ガラスに視線を向ける。水滴はガラス一面に散らばり、外灯の光を吸い込んで輝いている。

「もうあの人にはお伝えできないのでしょうか」

「えっ、えっ」

光り輝く水滴が雫となって流れると、消えゆく光が雨宮雪子の瞳に投げこまれていく。いくつもの光が雨宮雪子の瞳に吸い込まれ、雨宮雪子は目の前で幾何学的に流れる光の渦に飲み込まれた。

「もうお会いできないのでしたら、せめてこの気持ちだけでも伝えていただけないでしょうか」

「えっ、私?」

「いつまでもあなた様のことをお慕い申しております」

「私が?」

「こうやって彼岸であなた様を思っているわたしをいつか思い出してくださるとうれしい限りです」

雨宮雪子は椅子から立ち上がると部屋のドアをあけ、転がるように階段を降りていった。

「お母さん、お母さん」

「なに、うるさいわね」

母は台所で洗い物をしている。夕食のにおいがまだ残っている。

「宿題は?終わったの?お風呂入っちゃいなさい」

「ねえ、お母さんお母さん」

雨宮雪子は母のエプロンをひっぱり、左手で自分の頬を叩く。

「なによ、うるさいわね」

「お母さん、絵が喋った」

「は?」

母は雨宮雪子の方を振り返ると、眉間に皺を寄せて怪訝な顔をする。

「絵が喋った!」

雨宮雪子は母の目を見つめ、もう一度強くエプロンを引っ張った。

「あんたねえ、お母さん忙しいんだから。あんたの遊びに付き合ってる暇ないの」

「だから、絵が喋ったんだってえ」

「いいかげんにしなさい!」

母はエプロンを引っ張り雨宮雪子の手をほどくと、再び洗い物に戻った。

「宿題おわったんならはやくお風呂入っちゃいなさい」

「うん、でもね、絵が」

「絵はもういいの。あんた絵ばっかり描いてないで勉強しなさい」

「うん、でも、絵が」

「うるさい!」

「絵がーーー」

雨宮雪子は母の足元にしゃがみ込むと、そのまま大きな声をあげて泣き崩れた。母は驚き、父親を呼んだ。父親は雨宮雪子を抱きかかえると二階の部屋まで連れていき、ベッドに寝かせた。一人になるのを嫌がる娘のために父は娘が眠るまでずっとそばにいなければならなかった。

それ以降、雨宮雪子が声を聞くことはなかった。声を聞いた次の朝、雨宮雪子はいつも通りに学校へいき、友達とじゃれあい、家に帰って団欒を楽しんだ。声を聞いたことによる後遺症はなにもないように思われた。

しかし、その体験の記憶は雨宮雪子の中にしっかりと根をおろし、彼女の現実に深いところで影響を与えることとなる。

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