【短編小説】浄夜 3

いつの間にか眠ってしまったようだった。妻の声に起こされ、私は目を覚ました。

すでに夜ははじまっていた。電灯の光が部屋の中を暖かく包んでいる。

「顔を洗ってきたら」との妻の言葉に従い、私は洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗った。リビングへ戻ると、テーブルの上には夕食の準備ができていた。

「あなたの好きなものを作ったの」

妻はそう言って微笑んだ。テーブルの上にはコロッケとマカロニサラダときゅうりとワカメの酢の物と焼き茄子と冷や奴が載っている。

コロッケは買ったものではなく、ジャガイモを蒸かして皮を剥き、よく潰してから炒めたひき肉と玉ねぎを混ぜ、成形し衣をつけて揚げる妻お手製のものだ。マカロニサラダも酢の物も妻が得意とする料理だ。焼き茄子と冷や奴には大量の鰹節が躍っている。

どれもうまそうだ。私は急に空腹感を感じた。そういえば友人は妻の作るマカロニサラダが好きだったことを思い出し、思わず苦笑してしまった。やはり彼のための料理なのだ。

私は冷蔵庫から三本目の缶ビールを取り出し、口を空けた。妻が差しだしてくれたグラスにビールを注ぐと、泡が勢いよく膨れ上がった。妻は買ってきた赤ワインをグラスに注いでテーブルに置いた。

「それじゃ、食べましょう」

「いただきます」

私たちは向かい合わせに座り、グラスを重ねた。食事をはじめてしばらくは二人とも無言だったが、妻がポツリポツリと友人との思い出話をはじめた。私もそれに応じる形で彼との思い出を語った。

三人で金沢に旅行に行ったこと。新幹線で越後湯沢まで行き、それから特急に乗って金沢へと向かった。

あれも暑い夏の時季だった。魚を食べたいという友人の言葉に「それじゃ、冬に来ないとだめだね」と行ったタクシーの運転手。その言葉にがっかりしながらも夕食にと入った居酒屋で食べたアマダイやイカはおいしかった。

旅で上機嫌になっていた友人はその居酒屋で酔っぱらい、外に出て立ち小便をしたところを警察官に咎められたが意に介せず、私と妻が代わりに何度も謝るはめになった。朝になって目が覚めた友人はそんなことは覚えていないと言って、私たちが彼を騙してからかっているのだと思っていた。

帰りは黒部の方へ周り、温泉につかって、夜はまた宴会だった。

三人の中では主に友人が話の主導権を握り、私と妻は友人の言葉につられて自分の意見をたまに挟むくらいだった。私としては思いついたことを思いついた時に話せばいいだけなので、彼がいるとずいぶんと楽だった。

会話の進行役を買ってでてくれる友人は無口になりがちな私と妻にとってとてもありがたい存在だった。友人には話をあるべき方向に持っていく才能があるようで、場を盛り上げたり、誰かが話したそうにしているとその人の話を引き出したり、沈みがちになった会話の言葉尻を捕まえて他の方向に転回させもう一話題作り上げたりすることができた。

ただ、話を終わらせることができない人間で、いつまでも会話を引き延ばす癖があった。そういうときには私か妻が先に眠ってしまい、残った方を相手に友人は延々と話し続けるのだった。

金沢旅行の思い出をあらかた話し終わると、二人の間にまた沈黙が訪れた。こんなときに友人がいてくれればまたもう一話題作って、この場を盛り上げてくれたのだろうが、私にはそれはできない。人にはそれぞれ才能がある。私は会話を盛り上げられない代わりに、相手の心が言葉になっていくのじっくり待つことができた。妻はまだなにかを語りたそうに見えた。私はそれをゆっくり待つことにした。しばらくして妻は口を開いた。

「あなたは最初、彼に会ったとき、どう感じた?」

「胡散臭いやつだなって」

私はそう言って笑った。妻も肩を竦めて小さく笑い、私にワインを注いでくれた。

「私はね、ああ、この人とは長い付き合いになるなって、そう感じたの」

「お前には人を見る目がある」

確かに妻には人を見る目が先天的に備わっている。妻は自分と合う合わないを瞬時に見分けることができ、会わない人間とはうまく距離を置いて付き合っていた。

そんな彼女を付き合いが悪いと言って非難する人間もいたが、馬の合う人間とは彼女はどこまでも仲良くなることができた。ただそれは限られた人間だけなのだ。

妻を独善的ということもできるかもしれない。しかし、妻は妻で自分を守るために必死だったのだろう。妻はそんなに強い人間ではない。今まで暮らしてきてなんとなく私にはわかった。彼女の心はひどく傷つきやすいのだ。とても脆い。それを守るために彼女は自分を傷つけない人間を見分ける術を身に付けたのだ。それも才能である。

「確かにあいつとは長い付き合いになったな」

「うん、これからもよ」

妻は私から目を逸らし、ワインのボトルを凝視しながらぽつりと言った。

「まあ、そうだな。あいつのことは忘れないだろう。忘れられない。そんなことしたらあいつが怒る」

「そうね」

妻はそれからなにかを話しかけたが、途中で言葉が切れてしまいそのまま黙ってしまった。私は妻の言葉を待った。妻は頭の中で言葉を整理しているのか、私とワイングラスを交互に見つめていた。そして大きく息を吐くと手で顔を覆い、静かに泣きはじめた。

仕方がないことだ。人が一人死ぬということは、特に親しい友人を亡くすということは、彼女の心には耐えきれないほどの傷をつけたに違いない。私でさえ、そうだ。私は妻ほど心が繊細にできていない。その私でさえ、彼を亡くしたことの寂しさ、虚しさ、やるせなさを上手く処理できない。そういうときには泣くしかないのだ。頭で理解することではない。心がどうしようもなく揺さぶられてしまうのだ。

妻はしばらく泣き続けると「ごめんね」と言って残った料理を片づけはじめた。

「いいんだ。今日は好きなだけ泣けばいいんだよ。我慢することはない。あいつだって泣かれて悪い気はしない。あいつのためにもっと泣いてやった方がいい」

私はボトルに残っていたワインを全てグラスに注いだ。

「うん、大丈夫。もういいの。済んだの」

妻はそう言ってワインのボトルをもう一本取り出した。

「これ飲んでて。私、片づけしちゃうから」

「いや、手伝おうか?お前も少し休んだ方がいい」

「いいのいいの。なんかしてた方が気がまぎれるから」

私は仕方なく席に戻って、ワインをちびちび飲んだ。赤ワインの酸味が口に広がった。妻は残った惣菜にサランラップをかけ、冷蔵庫にしまっていく。私と目が合うと口だけ笑った。

「片づけが終わったら、もう少し話をしましょ」

「ああ、あいつのことを朝まで話そう」

私がそう返事をすると妻は少し困った顔をして、一呼吸沈黙を作った。

「そう。彼のこと。大事な話があるの。今夜はきっと長くなるわ」

私は大事なことについて考えながら一本目のワインを飲みほした。

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