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ジャカルタでのロングバケーション

私にとってジャカルタは特別な場所。
夫の転勤について2015~2019年の4年半を過ごした。
娘たちが幼児期~小学校低学年という時期を、南国の蒸し暑いアザーンの響く街で過ごした。
夫の駐在先ということで、はじめは
「なんだ、、東南アジアか、、やだなぁ。。」
という印象しかなかった。
当時私は外資系企業に勤務していたけど、まだリモートワークという発想もなく、2年までなら休職はできるが、4年以上ともなると難しい、という話で、キャリアの中断は余儀なくされた。
ジャカルタについてから1年は常に衛生面による腹下しで家族全員痩せた。
マンションなのに壁の裏にいる生命力が異常に強い虫たちと日々戦った。Gやヤモリがするすると平気で28階までやってくる。
どこに行くにもトイレがどの程度の衛生レベルか、安心して涼しく休憩する場所があるか、娘たちを連れていって安全なところなのか、常に警戒モード。

駐在先に慣れてくると、同じような所謂駐妻がたくさんいて、コミュ力高めの私はすぐに友人ができた。駐在先ではみんなで苦境を乗り越えてる感があって不思議と絆は強くて、今でもかけがえのない仲良しさんが何人かいる。時間もたくさんあったので浮世離れした生活を送っていた。
平日は通いのヘルパーさんに掃除洗濯料理など一通りやってもらえるので、昼間は友達と出かけてテニスして、夕飯の買い物して帰る。長期休みにはとにかく旅行。バリ、ロンボク、シンガポール、タイ、オーストラリア、本帰国前にはスリランカまで足を延ばした。
こうやって書いてるとどうしようもない主婦に見えるけど、要は本当に浮世なのだ。現実じゃないような、足元がふわふわした世界。

あまりに足元がふわふわしてたので、国立博物館で日本語ガイドのボランティアをした。これは私の人生においても大変大きな意味があった。二年目からはNPO団体の役員をしたりして大変ではあったけど、いい経験だった。ジャカルタに特別な思い入れがあったわけではないけど、昔から民俗文化や美術作品に興味があって、勉強してみると面白かった。
一人前のガイドになるには分厚いテキストを勉強して暗記して、半年間くらいかけて先輩ガイドの前で練習、ダメ出しをしてもらってまたテストを受ける。一通りテストに受かると、毎週火曜にツアー参加者の前で1時間のガイドツアーを行うようになる。毎週ガイドしていくうちに文章も流れも洗練されていくのが自分でもわかった。補足資料を自分で用意して少しでも興味を持ってもらえるよう工夫するようになった。
夏休みには日本人学校の子供たち向けにガイドする機会もありやりがいMAXだった。中にはツアー参加者で日本からの大学教授もいたりして、私よりお詳しいでしょ…という方もいらして緊張感もMAXだった。

そんなこんなで、様々な経験をするうちにあっという間に時は過ぎて本帰国のタイミングに。
あら大変、私は帰国してからの自分が全く想像できていなかった。
就職活動をしてみて、キャリアが途切れた自分に対して、日本の社会がどれほど厳しいかを痛感した。前職と全く同じ業界、業種ならまだギリギリ雇ってもらえるか、といったところ。40歳を超えるか超えないかもとんでもなく重要だ。
自己肯定感はゼロ、いやむしろマイナス。家族にくっついて駐在して帰ってきただけの自分に何の価値もない、と考える時期は思いのほか長かった。
帰国後の具体的な未来を想像していなかった自分を責めたり、夫や夫の会社を恨んでみたり、ネガティブの沼にずぶずぶとはまっていた。
私は自分でも気づかないくらいキャリア志向というか、仕事に生きがいを求めるタイプだったようだ。ただ帰ってきてから気づいたのでは遅い。

帰国後すぐにコロナで自粛期間があり、就職のタイミングを逃したことも自分がすぐに動かなかったことも悪かった。年齢的にも渡航が32歳、帰国が36歳。妙齢すぎる。そこから長女の中学受験に付き合い、今も次女の伴走真っ只中だ。いくつかパートみたいなこともしてみたが、どうもしっくり来ない。前職の外資系メーカーで働く姿もしっくり来ない。
しばらくは自分とは何か、何がしたいのか、今後どうするのか、ぐるぐると思い悩む時期が続いていた。もしこれから駐在に帯同する方がいたら、ぜひとも帰国後どうする予定なのかイメトレしておくべし、と言いたい。浮世は案外長くない。

今でも自分のキャリアについて思い悩むことはたくさんあるけど、どうしても博物館や美術関連が一番しっくり来る。しっくりというか自分がやりたいことが分かってきた。現在は小さなギャラリーを持つインテリア会社で働いてはいるが、もっともっとしっくり来る場所に近づきたいと思っている。
自分なりの譲れない部分や価値観、「これは絶対」という事もおぼろげながら見えてきた。それも博物館ボランティアがなかったら見つけられなかったことだ。
子供たちが成長するにつれ、ジャカルタへの帯同はマイナスだけではなかったと思うようになった。南国で過ごす幼児期から小学校低学年の娘たちは本当に可愛くてキラキラしていて、二人の毎日の成長を間近でじっくり見られたことは何者にも代えがたい。自分がこの先どんなことがあっても、心の中の一番輝いてる場所に彼女たちの笑顔がある。
娘たちにとってジャカルタは『第二の故郷』だそうだ。日本とは全く違う環境、多様な人種は記憶に強く残っているようで、写真を眺めては彼女たちなりに懐かしそうにしていて、アイデンティティの一部となっている。

あらゆる選択肢がある中で、全部を一人で手に入れることはできない。何かを選択したら何かを切り捨てなければならない。当たり前のことだけど、痛感する。
帰国して5年がたとうとしているが、唐突にパサールで売っていたドラゴンフルーツやパッションフルーツ、竜眼やマンゴーなどのカラフルなフルーツを思い出して、あの頃の景色が蘇る時がある。
間違いなく、私の人生において長く大きな意味を持つ旅だった。

ボロブドゥール寺院
Indonesian Heritage Societyでのボランティア
ドラゴンフルーツの朝食

#忘れられない旅

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