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二十五帖「蛍」角田光代訳源氏物語(小説論など少し)

 蛍兵部卿宮30〜34くらいか。オヤジって書いてスマンかった。でも、当時ならもうオヤジか。
 玉鬘にご執心の蛍兵部卿宮(源氏の異母弟)は盛んに文を送ってくる。キモいと思ってる玉鬘は返事を出さない。代わりに、源氏がお付きの女房に命じて返事を書かせたりする。他人のラブレター読んで、勝手に返事出させるとか、源氏もたいがいキモい。でも、当時はその辺のプライベート感覚、今と違うのかなあ。「雨夜の品定め」の時も、頭中将が源氏に来た文とか和歌とか勝手に読んでたし。でも、大事なんは隠してあるとも書いてあったけど。  
 男女間のプライベートな和歌が後世に残ってて、今も読めると言うことは、当時は、出された和歌はある程度、公開されること前提で書かれたのかなあ。ようわからんが。

 蛍兵部卿宮は、返事は源氏が女房に書かせてるとも知らず、ノコノコやってくる。それを高みの見物の源氏。趣味悪いわ。ていうか、自分も玉鬘に気があるくせに、弟煽るってどゆこと。端からうまくいかない(うまくいかせない)前提で楽しんでるとしたら、やっぱり趣味わるいわあ。
 蛍兵部卿宮は、どうしても玉鬘の顔が見たい。で、源氏がイタズラに部屋に蛍を放つ。玉鬘の顔が仄かに照らされ、蛍兵部卿宮はイチコロである。で、歌をかわす。
ーー蛍の明かりのように、私の思いは消えません。
ーー黙ってる蛍の方が、お喋りなあなたより、きっと思いが深いでしょう。
 うむ。まるで相手にされずに、すごすごと引き下がる兵部卿。

 長雨の無聊に、六条院の女たちは物語をよむ。玉鬘はこれまで物語に触れたこともなく育ったので、ことに熱心だ。そこに源氏が現れてからかう。
「女って騙されやすいんだねえ。デタラメ話に夢中になってさ。でも、まあよく書けてるものもあるちゃあるか。心に響くものもないではないね」
「私は本当のこととしか思えません」
「まあ、誰かの身の上にあったことをそのまま書けはしないが、後の世に伝えたいことを書いたのが物語の初めだろうから、本当と言えば本当だね。真実を物語で語ることは、仏教の方便みたいなものかね。
 世に比類ないことが物語なら、今の私とお前の関係がそうだろう、とキモ源氏は玉鬘に迫る。
ーー昔物語には、親に背く子はそうはいないよ、と源氏。
ーー子に思いをかける親など昔からおりません、と玉鬘。
 ああ、これはやられた、と源氏は退散するしかない。

 千年前の物語論である。当時から物語は嘘話であるが、そこには真実が書かれているとされている。誠に興味深い。
 ちょっと、ここらで真実と物語(小説)について考えてみたい。多分、長々とくだらない与太話になる。源氏物語とも関係なくなるので、源氏物語めあてで読まれてるかたは、どうか、ここで読むのをやめてください。



 昔、真実を求める学問は哲学であった。哲学の使命は、世界と人間(私)の真実を明らかにすることだった。世界を明らかにするのが科学であり、人間を明らかにするのが文学である。昔はその二つともが哲学だったのだ。科学は世の理、真実を求め、文学は人の理、真実を求める。
・世界の理=マクロコスモス
・人間の理=ミクロコスモス
 両者は未知の宇宙だった。そして、昔の考え方は、マクロコスモス=ミクロコスモス。つまり両者は共通する、と考えられた。だから、例えば人と自然は共通する。太陽神はアポロンでありアマテラスになる。自然神は人間神なのだ。
 近代になるとそれが変わる。パラダイム(価値観の)変換が起こり、似ていることより違うことが重視されるようになる。全てのものは、いかに似ているかで分類されるのではなく、いかに違っているかで分類されるようになる。自然と人間は切り離され、全く違うものとして認識されてゆく。
 物語も変化する。読者は登場人間へ共感したり同情したりするのではなく、その登場人物がいかに自分と違っているかに興味を覚えるようになる。殺人鬼、いじめの加害者、性犯罪者、性格破綻者、自己中、サイコパス、そうした人物たちが、ひときわ読者の興味をそそる。同時に個性が叫ばれ、みんな"違って"みんないい、と言い始める。違うことが大前提となる。同じような価値観、同じような人生、同じような幸せは求められない。
 と表面上、パラダイムは変わったが、私は人間心理の古層では、依然共感共通でありたいという認識が残っていると思う。
 それが悪く出れば、集団心理・同調圧力となり、一斉に一つの価値観に流れる。戦争万歳であったり、SNSの右へ倣えの誹謗中傷などがそれだ。そこには小さな正義が必ずある。そういうポピュリズムに人が流れたとき、その小さな正義以外の意見は封殺される。人は小さな正しさしか言えなくなる。みんなその小さな正義を守っているか監視し合うようになる。そこから外れれば袋叩きだ。言っておくが、正義は人の数ほどある。今そこある正義が常に正しい正義とは限らない。
 共通共感感覚が良い方に出れば、人は連帯できる。信頼関係で結ばれたコミュニティを作ることができる。法がなくとも、善悪の判断ができ、それが自然に受け入れられる。人は自分に特別感を強いてもつ必要がなくなる。個(ミクロコスモス)が繋がり集団(マクロコスモス)となる。それは個でありながら集団だ。集団でありながら、一つの生き物のようにまとまれる。それは大海原で何万匹もの小魚たちが群れになって、一つの生き物のように動くのに似ている。そこでは、個の幸せは集団の幸せである。そこでは、なぜ人を殺してはいけないのかとか、なぜ盗んではいけないのかとか、なぜ騙してはいけないのかとか、そうしたなぜを問う者は誰もいない。一つの魚群のなかでは、殺し合ったり盗みあったり騙しあったりする必要がそもそもないからだ。そういう発想がそもそも生まれはしない。当初、人間はそうであったと思いたい。少なくとも、そうであろうとしたと思いたい。
 だが、そうはいっても、集団から外れるものは必ず生まれる。そして、その新奇なふるまいが文字によって残され、あるストーリーを持って語られ始めた時、あるいは"同じであること"から"違っていること"へのパラダイム変換が始まったのかもしれない。
 "同じである"ことを求めるのは、恐らく宗教だろう。真実を求めるという意味で、私は宗教も文学のひとつだと思っている。そして、"違っていること"つまり個々の真実、正義を書き留めていったのが、物語であり小説だったのではないか。そこでは親が子を犯すと言う正義も成り立つ。それは、その登場人物にだけある小さな正義だからである。そして、それを読んだ人間は、自分の中にも、自分独自の小さな正義があることに気づき始める。
 道徳的でない小説を読んで、なぜ我々は感動するのか。なぜ人は太宰の自己欺瞞を好むのか。なぜ漱石のエゴを喜んで読むのか。なぜ谷崎の変態趣味に喝采するのか。なぜサドが今だに刊行されるのか。ボヴァリー夫人やアンナ・カレーニナの不倫を読むのはどうしてか。盗人のジュネのどこに惹かれるのか。それは、そこに個々の真実があるからだ。"違っていること"の自由がそこにあるからだ。
ある哲学者が言った。
今、人間は自由という刑罰を受けている、と。

 まあ、私はそう思ってるだけってことです。本当か嘘かわかりません。ああ、尚、私が書くポンコツ小説は、時代遅れにも、"違ってること"より"同じであること"をテーマとしてます。どっちか言うと、純文学に前者が多いんですかね。エンタメ・大衆文学には後者がまだ残ってる。
 てことで、アタクシはふるーい人間なんでござんすよ。


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