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いしいしんじ「ひとことひとし」

注意、SF好きの方は読まないでください。

「一言ひとし」かと思ったら、「ひとこ(姉)とひとし(弟)」の話だった。朝ドラみたいな題名だと思ったら朝ドラもすぐ話題に出てきた。そう言えば、今シリーズの朝ドラ「虎に翼」は目が離せない。戦争になって寅子が今、どんどん追い詰められている。心配である。

あ、横道にそれた。「ひとことひとし」である。二卵性双生児なのであるが、四歳の時、ひとこが死ぬ。違う世界では、逆にひとしが死ぬ。残った二人はパソコンを通じて出会う。そう、この小説はパラレルワールドを扱っているのだ。私の苦手なSFである。

なぜ私はSFが苦手なのか。それは話に描かれている世界観を、頭の中で再構築しなくてはいけないからだ。それが面倒くさい。どうせありもしない世界のあり方を、なぜに苦労して理解せねばならんのだ、という感覚が常にある。そういうのが好きな人はいいだろうが、何しろ想像力の乏しい人間である。苦痛である。さらに、下手なSFだと、後付けで色んな装置が出てきたりして、もう読む気なくなる。
死んだ、と思ったら、実はこの世界では死者を甦らせる装置が開発されていた、とか。
お前が憎い、と思ったら、「おや、今、僕を憎いと思ったね。私は大学でエスパー課程をとったから、君の思ってることくらい手に取るようにわかるんだ」とか。
なんじゃい! なんでもありか! 

話がそれた。勿論いしいさんのSFはそんな程度の低いものではない。
パラレルワールドは、こっちの世界とちょっと違った世界がもひとつある、というものである。だから流行りの異世界ものとは違う。
そして、だいたいパラレルワールドときたら、だいたいがあっちの世界に行く行かないの話になる。
つまり行く行かないしか筋はない。じゃ、どこが読みどころか。

なぜ行きたいのか。である。

「ひとことひとし」はなぜ会いたいのか。

会うためひとしは走って体を鍛える。生きる力が二人をつなげる力になるとのひとこの提案である。また二人は音楽を五歳から続けている。二人が死んだ翌年からである。ひとこは声楽を、ひとしはバイオリンを続けている。これも二人を近づける生きる力となる。作中ではそれを「詰まっている」と表現している。

二人の祖母も双子で、一人は早くに亡くなっている。残されたお婆さんは、命を預けられていると思い、頑張って百近くまで生きる。

どうやらこの辺が、二人がなぜ会いたいかのキーだろう。残された方は、死んだ方の命を預けられている。しっかりと「詰まった」生き方をすることは、相手の預けられた命を生きることだ。だから、「詰まった」生き方ができたとき、二人の世界は繋がる。なぜ会いたいかではないのである。「詰まった」生き方をした時、必然的に世界は命はつながるのである。現に音楽の発表会で懸命に演奏した時、ひとしの耳にひとこの声が聞こえる。四歳で死んだはずが七歳で死んだことになっている。

パソコンの向こうにひとこがいなくなったのは、ひとこがこちらの世界に来たからである。多分向こうの世界ではひとことひとしが初めからいないものとしての世界が、淡々と続いていくのだろう。

SFの設定の仕掛けは、例えば「詰まった」生き方がをすることへの気づきをさせるためだ。自分の命は誰かの命の預かり物なのかも知れないと考えさせるためなのだ。

それでもやっぱりSFは僕には合わないなあ。不思議はいい。不思議な話は大歓迎である。命を預かるという考え方も好きである。「詰まった」生き方の感覚も、よく分かる。
ただ、その舞台設定は、別にパラレルワールドでなくてもいいんじゃないか。言っちゃおう。なんか安易に見える。それぞれの生の足りなさ加減を、パラレルワールドがあったことで気づかせるより、日常の生活のカケラから、人との何気ない会話から、ひとしには自分で気づいて欲しく思った。別にパラレルワールドがなくても、この話は成立できるし、その方がひとしの思いは深くなるんじゃないかなあ。

んと、やっぱり好みの問題ですかね。修行が足りませんな。

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