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純文学の感想でネタバレすること

「新潮創刊120周年記念特大号」全部読む、というマイ企画進行中である。その中でしばしばネタバレの粗筋を書いてしまう。今回はその弁明である。
勿論私とて、推理小説で犯人を書いたりトリックのネタバレなどやらない。ミステリーやクライムノベルで主人公の行末など書かない。なのに純文学ではなぜ書くのか。
端的に言って、純文学は何が書いてあるか、よく分からないからである。一読して納得できるものが少ない。読み終わって、うーんと考えて、もしかしたら、これはこういうことではなかろうか、といった仮説程度しか出てこない。仮説と書いたが、これは作者が意図したものがはっきり伝わってこないということだ。これは作者の問題というより私の問題である。
作者は抜き差しならない何かを私に伝えようとする。それは、予めこの世にある物語ではない。新しい価値観や、新しい物語や、新しい何かだ。今ある物語を今ある価値観で語るのなら、それは筋を語っては駄目だろう。そういう小説は筋が全てのところがある。今ある価値観、私が持っていて、世間で納得されている価値観で物語が語られるなら、必然的に、その読みどころは筋になるからだ。はらはらドキドキびっくりサメザメ怒りに顔を赤くしたり恐怖で青くなったり恋にときめいたり、まさしく読書の喜びである。だから、それを書いては駄目だろう。
だが、純文学はそうじゃなくて、読みどころはたぶん「新しい何か」なのである。作者独特の感性、価値観、時代の捉え方、異議申し立て、美意識、善悪の捉え方、などなど。それは、今までになかったものだから、とても捉えにくい。なんとか捉えようとするなら、その取っ掛かりになるのは、書かれてある言葉たちしかない。
 だから、私は粗筋をネタバレ覚悟で書く。要素を並べてみて、何が書いてあるか、吟味する。私がネタバレ粗筋を書くのはそういう訳である。
 更に言うなら、私は純文学の人ではない。ポンコツ通俗素人小説を時々書く身である。でも、書いてくうちに、こんな私如きでも、書けなくなることがある。今がそうである。たぶん、自分の書くものに飽きてるんだろうと思う。私たちの持っている価値観や物語は日々新しく更新されている。それに気づかないで、百年一日のごとく昔のままの価値観で書いていると、たいがい嫌になる。商売で書くのなら、それはお仕事だから書けるだろう。ところがどっこい、こちらは趣味である。金銭的に考えるなら仕事は趣味を超えるが、自己満足の世界では趣味は仕事を超える。今、たぶん自分が面白がれるようなものが書けない。ので、純文学を読むのである。思うに、読ませ方、読ませる技術に関しては、通俗小説の方が数段優れている。しかるに、なんだか訳のわからない、それが新しいなにかさえもわからないような、得体の知れないものを書こうとしているのは純文学だと思う。だから売れないし、一般の人は、そんなもの読みたくない。それはそれでいいのである。
ああ、何を言いたいんだ、私は。
だから、つまり、その、純文学を読む一番の目的は、まだ見ぬ鵺のような何かを知ることだから、筋なんかいくら喋ったっていい、と私は思っているということです。
ますます何言ってるか、わからないって? まあ、いつものことです。読み流してください。それから、ネタバレ嫌な人は、このマイ企画は読まないでくださいね。
以上、今更ながらの弁明でした。

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