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憂しと見し世ぞ7

 「……憂しと見し世ぞ今は恋しき」
 古文の山根先生が、相変わらず一人で授業を進めている。寝てる奴。髪の毛をといてる奴。漫画読んでる奴。メール打ってる奴。いろいろだ。山根先生は怒らない。というか怒っても無駄だど知っている。人間は必要と思わないものを努力しない。この落ちこぼれクラスのほとんどが古文なんて必要としていない。じゃ、古文以外の教科を必要としているかといえば、それも、ない。
 沢木のクラスは違う。これは国語の選択授業なので、沢木はもっと上のクラスにいるはずだ。選択授業っていっても要は能力別クラスだ。能力別とはっきり謳うと差別だとか言い出すバカ親がいるんで、こういう名称なわけだ。
 はっきり言って人間には能力の差はある。駆けっこだって能力差があるのに、勉強はないなんておかしい。わたしだって、古文の最上級クラスに入れられるくらいなら、ここにいる方がマシである。
「……どうだろう。君たちは恋愛は楽しいものだって思っている人が多いんじゃないかな」 
 って投げかける振りはするけど、山根先生はわたしたちから反応が返ってくるなんて期待してない。だから、一人で納得して授業を続ける。
「そう。君たちの認識はそうだな。だがね、平安時代は恋愛とは苦しいものだったんだよ。びっくりしたかい」
 誰もびっくりしない。興味もない。
「恋は苦しむもの。辛いものなんだな。辛い苦しいこの世でも、でも恋している身としてはやはりこの世に未練がある。作者の藤原清輔は、そんな遠い日の恋愛を思っていたのかもしれないね。また、清輔は父親にも疎まれてなかなか昇進できなかったんだ。親から愛されない、そんな日々を憂しと見たのかもしれないね。
もしこれから生き長らえたならば
 つらいことの多い今が、懐かしく思い出されるのだろうか。
 かつてはつらいと思っていた昔が、今では恋しくさえ思われるのだから。
まあ、そんな歌だ」
 ああ、そうなのか。って、わたし授業に参加してるじゃん。
「みんなは浮世絵って知ってるだろう。そう、江戸時代の版画だね。あの『浮き世』は、実はこの『憂し世』からきているんだ。江戸時代なんて、身分制が敷いてあって、多くの人は一生自分の土地に縛られる。生きてても閉塞感があるわけだ。この辛い『憂し世』をどう生きよう、と考えても、江戸の町人達は、長い目で見たって先はない。世の中変わる訳でもない。自分に将来もない。夢もない」
 山根先生の魂胆が見えてきた。解説にかこつけてわたしたちに当てこすりを言おうとしてるんだ。周りを見た。気づいている奴というか、聞いてる奴はひとりもいない。山根先生が妙にわたしを見る。まあ、そりゃあそうだろう、聞いているのはわたしだけなんだから、自然とわたしを見る。わたしも視線をそらすと、負けたような気がするから(何に負けんだ!)、必然山根先生を見る。先生はわたしに話しかける。
「だから、刹那を生きようとした。江戸の粋、イナセというのはそういう歴史を負っているわけなんだよ。君達は、江戸の粋といっても、テレビの時代劇に出てくる遊び人くらいしかわからないだろうが、実はそんなヤワなもんじゃない。例えば、今大食いタレントなんかが人気だけどね、大食いの大会は江戸時代に始まったんだよ。どんなもの食ったかっていうと、例えば、盥いっぱいの白米。醤油一升。梅干どんぶり十杯。豆腐百丁。これを一人で食うわけだ」
「死んじゃう」
 と思わず口走ってしまった。山根先生がにっこり笑う。
「そう、死んじゃう。でも、死んじゃってもいいんですよ。食べきって、そこで凄いって拍手うければ、それでいいわけなんだ。満足なわけ。なんていうか、そう、花火だね。打ち上げ花火。人生で一瞬、打ち上げ花火のように、みんなから注目されれば、それでいい。後も先もない。そうだな、この世を命がけで洒落のめす。これが、粋ってことだね。そして、そういう人が世を見たとき、『憂し世』は『浮き世』に変わるんだね」
 山根先生は教卓の前に回りこんで、腰を教卓にあずける。いくつだっけ。三十代。六か七。先生はわたしを見ている。
「ちょっと今と似てるって思わないか。格差社会とかいって。これ以上、時代の進歩もありそうにもない。大人になっても先が見えてる。そこで自暴自棄になる奴が増える。刹那を生きる人間が増える。子供ほったらかして遊び回る母親とかね。時々現れる通り魔とかもそうかもしれない。違ってるのは、拍手受けるか、罵倒されるかの差であるけれど、打ち上げ花火は同じだね。よく、死ぬんなら勝手に死ね、とか言うけど、勝手に死んでもマスコミは騒がない。道づれ作って注目されて、それではじめて満足なんだ。『浮かれ世』が『憂し世』に舞い戻りってとこかな」
 ちょっと怖くなった。あの変質者のことも思い出した。
「憂しと見し世ぞ今は恋しき。通り魔殺人やって、死刑待ってる奴も、そんな気持ちになってるかもしれないな」
 山根先生は教科書を丸めてポンポンと叩いて、教卓の後ろに戻った。

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