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石沢麻依「エコー、あるいはEの消失」

物真似芸人は、日夜鏡の前で、その対象となる人を研究するそうである。声色。表情。口癖。仕草。ファッション。その人の言いそうなこと。その人の考えそうなこと。その人が怒りそうなこと。喜びそうなこと。悲しむこと。何に希望を持っているのか。大好きなこと。大嫌いなこと。憎む人間。自分の嫌いなところ。自分にしかわからないこと。自分とは誰か。突き詰めた芸人は、大概病院行きだと言う。

主人公の名前はエコーと言う。エコーには、こだま、反響、繰り返し、共鳴、模倣などの意味がある。だから、エコーには実態がない。体は透明で輪郭がない。模倣を生業とし、誰かの姿を纏う。療養所で対話療法のスタッフとして働いている。
そこにはエリカの母親が入所している。母親の心は十三で死んだ、一卵性の姉エマで占められている。母の記憶から追い出されたエリカは、母から姉を取り出してくれるようエコーに頼む。そうして姉エマの写真を渡す。
写真に映る少女はいつのまにかそっくりな二人になる。それを告げるとエリカは写真をハサミで切り、自分の映る半分を持ち帰る。しかし、写真に残るはずのエマの姿も消えてしまう。
エコーはエリカの姿になってエマを待つ。(もはや存在認識の問題になっているので、エマの生死は関係ない)
奇妙な電話がかかってくる。
「E……さんの肖像の返還を求めます」
療養所の中(それは青年によって描かれた白いギリシアふうの街並みなのだが)で、エコーはエマを見つける。逃げるエマの後ろにはエリカがいる。その後ろにはエコーが。三人は入れ替わり、追われ追う。三人は全く同じ三人だった。やがてエコーは三人は、ハサミを取り出し振り上げる。

ドッペルゲンガーを見たものは死んでしまうと言う。一卵性の双子を文学が取り上げると、好ましい話にならない。
なぜだろう。
人は常に「取り替えの効かない、唯一の私」でありたいと願うからだろうか。だから、自分と外見上同一の存在を嫌悪するのだろうか。(もしくは、相手を自分の延長と見て溺愛するのだろうか)

小説は、名前を呼ばれない、Eとしてしか認識されない、匿名の悲劇で終わる。
これが石沢さんの見る今なのだろうか。

人は完全なオリジナルとしては生きられない。人生は誰かの人生を模倣するしかない。勿論完全に模倣はできない。しかし、出来てないところに、模倣しきれなかったところにこそ、自分の人生のオリジナルがあると私は思う。それは一見マイナスイメージにしかならないようなものである。しかし、それこそが「取り替えの効かない、唯一の私」だったりするのではなかろうか。

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