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小説精読 少年の日の思い出5

ぼくがコムラサキを見せると、エーミールは20ペニヒの値打ちがあると言う。エーミールは、自分の価値観を持っていない。金の価値とは社会的な価値だ。自分以外の、その他大勢の欲望の価値だ。誰も道端の石ころに価値を求めない。このコムラサキは20ペニヒ出しても欲しいという人間が社会にいるということをエーミールは言っている。同時に、コムラサキを20ペニヒ以上出して欲しい人間は、いないとエーミールは言っている。20ペニヒ以上だすのなら、その欲望は他に行くと言っているのだ。


果たして、そうか。コムラサキを欲しくて欲しくてたまらない人間がいたとする。彼は20ペニヒ以上出さないか。私は出すと思う。そのものがどうしても欲しいという欲望を、たぶんエーミールは理解できない。たぶん、彼にはそういう経験がない。

自分の殻にこもるぼくは大いに問題だが、エーミールは、もっと重大な欠落を抱えている。彼には自分の欲望が、ない。エーミールにはおそらく芸術はわからない。高ければいい絵だと思い、売れればいい音楽だと思うはずだ。お金なんてどうでもよくて、自分がいいと思ったものはいい、そう思える感性が欠落している。

テレビで、「なんでも鑑定団」という番組がある。自分が価値ある骨董品を専門家に鑑定したもらう番組だ。長く人気がある。人は自分のお宝が、世間でどのような評価なのか知りたいのである。でも、それは他人の価値観に自分の価値観を委ねることではないか。自分がいいと思えば、たとえそれが世間的に一円の価値しかないものでもよくはないか。例えば、絵画は、そう考えて印象派を生んだのではないか。演劇はアングラを生んだのではないか。ガロは幾多の漫画家を生んだのではないか。芸術のフロンティアは、常に、既存の価値観と戦った歴史ではないか。

エーミールとぼくの対立は「個人の欲望」と「社会性」という二つの軸を提示しつつ進んでいく。

今日はここまで。


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