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十帖「賢木」角田光代訳源氏物語(反撃がはじまる)

賢木(さかき)は榊で、常緑樹である。変わらない自分の思いとして、源氏が御息所への歌に詠み込んだ。

といっても遅いのである。六条の御息所は生霊になって葵の上を取り殺したことも自覚しており、娘に従って伊勢に行くしかないのである。
ずっとほったらかしにした源氏が悪いのである。居なくなるとわかったら、急に情が湧く。離婚が決まって、いよいよ嫁が家から出る段になって急に愛しくなる、アレである。自分勝手な、アレである。御息所は源氏の口車にも乗らず、伊勢へ旅立つ。

したところ、桐壺の院の具合も悪くなって亡くなる。譲位したとはいえ、実際の政治は院が行っていた。
あまりのことに源氏は出家しようかと思う。が、紫の上がチラついてそれもできない。東宮(実は自分の子)の後見のこともあって、世は捨てられない。

そうこうするうち藤壺が出家する。まだ諦めきれてない源氏の目の前で宣言する。
藤壺も葵の上も夕顔も空蝉も六条の御息所も院も、みな自分の前から消えてゆく。

院が亡くなり左大臣は職を辞す。源氏は後ろ盾を失う。天下は右大臣・弘徽殿の思うままである。
その頃、尚侍(朧月夜)が、右大臣邸に里下りする。入内前に源氏と関係があったことは帝も承知で女御にはなれない。それでも尚侍と源氏の関係は続いていた。
他に行き場のない源氏は、何度も右大臣邸に忍んで尚侍(朧月夜)と契る。或る夜、源氏が忍んできた夜に雷が喧しい。恐れた女房たちが御簾を囲む。中にいる源氏は逃げるに逃げられなくなり、それを右大臣に見つけられる。弘徽殿に知られる。
源氏追い落としの引き金が、今、引かれる。

私は情感の薄い男である。ここまで生きてきた中で、酷い目にあったことも多々あるが、復讐して溜飲を下げようなどと思ったことは一度もない。恋愛もそうである。嫉妬に狂うなど経験がない。
「源氏物語」は愛憎劇っぽくなってきた。だから私にはわからないのかもしれない。

愛憎というなら、現代小説には三角関係とか不倫とか、それ周りの題材がよく出てくる。恋愛の障害が、今はこれくらいしかないからだろうか。
 大概男の未練で女を追いかける。情痴小説と呼ばれたりする。小説ではワンチャン女もほだされて、男に気持ちの向くことがある。
 逆もある。瀬戸内晴美の「夏の終わり」など、そうである。妻子ある愛人の家を主人公が訪ねる。
「来ちゃった」
と言う女に、私は戦慄した。怖すぎる。とんでもホラーな話である。

人間は普通理性で生きている。が、理性ではどうしても制御できない狂気も人間は持つ。その一つが恋愛なんだろう。好きになれば、理性もへったくれもない。人の奥さんだろうが、政敵の娘だろうが、関係ない。好きになっちゃったんだから仕方ない。そういう人間のいることは知っている。与謝野晶子とか、そういうタイプだろう。恋愛に狂うのは、わからんでもない。

ただ、源氏の行動は、プラトニックな時間がほぼなくて、恋愛=体の関係になる。すぐにゴールがくる。私としては、恋愛の時間で、プラトニックなやり取り、駆け引きをも少し読みたいのだ。それが人を好きになるということだろう。違うのかなあ。
藤壺は周りのガードが固くて、なかなかそういう関係にならない。じゃ、募る思いを丁寧に書くかと言えば、それはない。そこが現代小説と違う。何故好きなのか、桐壺に似てるから。うーん。それだけでは弱くないか。紫も一緒である。似てたから。それはキッカケだろう、とどうしても思ってしまう。

ひと頃、恋愛は西欧からの輸入品である、という説がやたら流行った。柄谷行人とかが言ってたように思う。明治まで、「恋愛」という言葉はなかった、と。じゃ、情感溢れる男女間の思いのやり取りは日本になかったかと言えば、
実は、あった。
万葉集には、相聞歌がたんとあるではないか。そう言えば、源氏物語でも、歌のやり取りはたんとある。
そこか!
私は、筋追いに忙しくて、和歌をちゃんと吟味してなかった。源氏とて、いきなり体の関係を求めるのではなく、前に歌のやりとりをちゃんとしておるのだ!
浅はかは、私であった。
これからは、ちゃんと和歌も味わって読もう。
えっ? 今頃、気づいたのかって? はい。私は大馬鹿者でありました。

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