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新たな価値を生むという発想は荒野から生まれる|投資家との対話から

2020年末から始めた伝説のベンチャーキャピタリスト村口和孝さんへのインタビュー調査。オーラル・ヒストリー研究の一種として進めている。毎月1回,普段はなかなか聞けないDeepな話を聞く機会を得ている。

当初は彼のキャピタリストとしての半生を聞いてきたが,ここ数回はスタートアップの事業構築から規模拡大,IPOに至るプロセス構築がどのように起きるか,そのロジックを実務家目線からお話頂いている。

経済活動の根幹はパートナーシップにある。

この話を伺ってから、これまでやってきたことの点が線になった感覚を得ている。

今日はその話を聞きながら感じたことを書いてみる。とりとめもないので,ご容赦ください。

こんな感じでお話を伺っている

PDCAは自己保身のプロセス

PDCA偏重。すごくそう思う。確かに事業を安定的に継続するにはPDCAが必要。管理会計を専門分野としている私からすれば,極めて当たり前の話だ。

しかし,新規事業の場合はどうなのだろうか?細かくPDCAが回っていると言えばそうかもしれないけれども,そもそもP(計画)があるのか。

村口さんは「パートナーシップを目指す個人活動と,組織に従属する組織人活動との,人生観の違いが顕著になっている」と述べている。

「働く」が「組織に所属するもの」として捉えられて久しいが,そこには働く個人の主体性があるのか。何かに囚われて組織人として従属しているに過ぎないのではないか。どこから湧いたかわからない計画を金科玉条のように捉え,決められたことを決めたとおりに実行,実現することを良しとしているのではないか。その正統性はどこにあるのか。

ここに書かれていることを原則論として働くこと,それ自体は悪いことではない。しかし,そこから何か新たな価値が生まれてくるのだろうか。

企業で働くということが意欲ある個人にとって学び(=個人の成長?/成長という言葉は好きではない)を得られることとつながっているのか。それで豊かになっているのか。金銭的にも,精神的にも豊かになっているのか。

が,これから就職活動に臨む学生,一生懸命取り組もうとしている学生を見ていると,真面目な人ほどその罠に陥っているのではないかとも思う。

何かを守るため,自分が誤っていないことを周りに示すために計画通りにモノゴトを進めようとする。槍玉に挙げられないようにするための自己保身のプロセスになりつつある。が,当事者たちはそれに気づかない。優秀な人ほど気づかないのかも知れない。

今の閉塞感は未来が見えない,価値が生まれないことから起きる苛立ちによる。1990年代末から続いてきた「働く」ことの改変で得られた帰結はだんだん見えつつある。極めて破滅的だ。

と同時に、これはもう人生観の違いだ。見えている世界が違うのだから,いくらそれを言っても仕方がない。そのようにも思うのだ。

変化した未来にいかに適応し,人類を幸せにするか?

どちらにしても「明るい未来」を築こうとしている。それを既存組織の中で実現しようとしているのか,その枠組みに囚われずにやろうとしているのか。どちらも正しい。間違っていない。

スタートアップを立ち上げるということは、村口さんの言葉によれば「変化した未来にいかに適応し,人類を幸せにするか?」ということでもある。PDCAを重視する人には取れないリスクに向き合うことになるけれども,それに向き合いながらも(誰もがまだ見たことのない)価値を創出することにフォーカスする。見えていない不確実な事象に対して,人は合理的に行動することはできない。

でも,これってスタートアップに限った話ではない。旅に出る,誰かとお付き合いする,結婚する,コラボレーションする。いずれにしても確実な未来など見えないにも関わらず,「働く」ことだけはライフラインの維持もあってか,安定性が極めて強調されることがある。ここで言う「安定」とは漸進的かもしれないし、先送りかもしれないし、何もしないということかもしれない。もうよくわからない。

地方創生と語られている「地方をいかに再構築していくか」という話も基本は同じであろう。中小企業の新規事業創造も同じだ。

スタートアップにせよ、中小企業にせよ、地域にせよ、対象物が異なるから創り上げたい未来の姿が異なるだけで,未来へ至るまでのルートはある程度普遍的であるように思う。イベントは多少違うが、一歩踏み出してから事業化に至るプロセスは少しずつ理論化が進んでいて,パターンの適応方法が異なることが私なりにわかってきた(気がする)。

近い未来をできるだけ安定的に創り上げていきたい人と,遠い未来を見据えて先回りして価値を創り上げていきたい人とに分かれているだけだ。

が,その人たちはわかり合えることができない。今さまざまな場所で起きているコンフリクト(衝突)はそういう性格のものなのかもしれない。

イノベーションは辺境から起きる

ここでも繰り返し書いているように,私は福岡を拠点にして九州各地を尋ね歩いている。

そこに「何かあるから」ではなく,そこに「人がいるから」である。地方を見るときにモノに着目をするのか,ヒトに着目をするのかで見えてくる世界が全く異なる。

以前,日南→串間で合宿をした2019年時点でも同じようなことを考えていた。

それから2年半が経過して,街を回れば回るほど,その地域で「地方創生」に取り組んでいるみなさんは,それぞれの環境に適応しながら,ありうべき未来を見通して事業を構築している。

スタートアップのような世界を変える,事業構造を変えるというものではないかもしれないけれども,限られた資源を活用して地域を持続可能なものにしていこうとしている。そして,そこに新しい未来を切り拓こうとしている。そこには人々の生活に密着した暮らしが見え隠れする。

例えば,うきはでばあちゃん食堂を営む大熊充さんの話はとても参考になる。

彼は何も新しいことをしようとしたわけではない。新型コロナウィルスが蔓延する中で,自由に移動ができないお年寄りの移動を助けながら話を聞いてインサイトを掘り出し,事業にした。それがばあちゃん食堂に結実した。

それでも彼がすごいのはスタンスを変えていないところなんだけれども。

かつて,TEDトークで伊藤穰一氏が話していたように,イノベーションはどこかの誰もが知っている大企業で起きているわけではなく,学生が研究室や学生寮で立ち上げたプロジェクトが起点になっていると述べていた。GoogleやFacebook,Yahoo!がそうであるように。

それと同じように,各地域でも誰もが気づかなかったけれどもなんとなく課題だと思われていたことを事業を通じて解決しようとしている人が可視化されるようになってきている。10年前にこんなことを言っていたら笑われていただろうが,新型コロナウィルスにより動きが止まると見えていなかったものが見えるようになってきた。ブームではない。

「地方創生」という言葉が生まれて10年ほどになる。そこでなかなか芽が出ないとはされていたけれども,だんだんその芽が見えてきた。東京のような加速度的な成長ではないけれども,それぞれの地域がそれぞれでどう持続可能な地域づくりをしていくかを考え,実践している。

これをイノベーションと呼ぶかどうかはわからないけれども,その昔先人たちがその場所を拠点とし,生活を営み,人が集まりできた街をどう次世代につないでいくか。十分創造的な営みであるように思う。

その根幹には自分と自分ではない他者とのパートナーシップがある。

改めて今こうした取り組みをしているのか

ゼミで進めてきた創業体験プログラムの紹介動画で,村口和孝さんには次のようなメッセージで登場して頂いている。

これからはJob Seeker教育ではなく,Job Maker教育をしなければならない。
上記Youtube動画より
九州が最先端を走らなければならない。地域で有力な(私立大学である)福岡大学こそがそうした人材を育てなければならない。
上記Youtube動画より

どこかで多分このメッセージが生きているのだろう。もうこの話を聞いて7-8年が経過しているけれども,この言葉を頂いてから自分がここで果たすべき役割が見えてきた。そして,それに向けて突っ走ってきた。自分がプレイヤーとしてではないけれども,企業を、事業を、地域を担う人を創るという意味で頑張ってきた。地域と大学を結ぶことでできることが少しずつ増えてきた。これもまたパートナーシップだ。

都会で毎朝満員電車に乗って(感染が怖いといいながら!),同じように仕事をして,その仕事の価値を給料としてもらい,(汲々として)暮らしていく生活は果たして最先端なのだろうか?

もちろん,地域に入って働くことがバラ色の人生があるということではない。ただ,地域にはヒトが少ないからこそ,ちょっとした発見で事業化できる可能性が残されている。ましてや,地域と都市を行き来しやすくなっているからこそ,できることが増えているように見える。

そこをもっと意識的に形にすることによって,私自身の働き方も変えていけるのではないか。かつてコロナ前に香港と福岡を行き来していた際に言っていた微住だ。今流に言えば2拠点生活か。私が意図しているのはもう少し多動な生活だ。

誰とも違う自分なりの道を築こうとすれば,それはどうしても荒野をひとりぼっちで歩いているような感覚になる。村口さんの話を何度も聞いているので,同じことを繰り返し言われているのだが,彼がここまで歩んできた道も荒野を切り拓いてできたもの。

それと全く同じように論じることはできないが,今自分が直面していることは,自分の志と考えたことに殉じるかどうかということ。人に自分の生き死にを握られている感覚は気持ち悪い。今一度,自分の人生を自分で生きているという感覚を持てるようになりたい。

自分が今何ができるのかを試されているのだと思う。そこにどう向き合うか。頭の良くない私には大きな問いになる。

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