『ライチ☆光クラブ』と青春の破局

同じ時代に、世代を同じくして活躍する俳優たちの、その経歴の最初期に位置する記念碑的な作品が、週ごとに次々に公開される星の数ほどの日本映画のなかに存在する。近年を例にとれば、藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、高岡蒼佑、塚本高史、栗山千明、柴咲コウらが、今となっては奇跡としか言いようのない共演を果たした『バトル・ロワイヤル』(00)、松田龍平、新井浩文、高岡蒼甫、忍成修吾、塚本高史らが集結した『青い春』(02)のような作品である。あるいは、小栗旬、山田孝之、金子ノブアキ、桐谷健太、綾野剛、浪岡一喜、高岡蒼甫、高橋努、阿部亮平、三浦春馬らが争闘を繰りひろげた『クローズZERO』(08)および『クローズZEROⅡ』(10)、そして神木隆之介、橋本愛、前野朋哉、山本美月、松岡茉優、清水くるみ、東出昌大、太賀、落合モトキ、浅香航大、大後寿々花、鈴木伸之、藤井武美らの、その後の華々しい活躍を予見していたようなキャスティングの実現も忘れてはならない。

それぞれが、心身を磨滅させながら極度の緊張と暴力的な活力をはらませて進行する青春の時間を表現した傑作であることはもちろんのことだ。しかしくわえて、そこへ参加した俳優たちの多くが全く清新に、何らのイメージの固定も負わずに登場し、映写機の回転数とともに、あたかも未踏の雪原を踏みぬくような衝撃が具現化してゆくことに特別な感情を持たざるをえない。そのことが、これらの作品を映画史上に記念碑として立たしめるのである。

その後のことを考える。たとえば『ちはやぶるー上の句ー』(16)に始まる三作もまた、広瀬すず、野村周平、松岡茉優、上白石萌音、清水尋也、真剣佑らを揃え、また『帝一の國』(18)も菅田将暉、竹内涼真、野村周平、志尊淳、間宮祥太朗、千葉雄大らを集合させた。ただこれらの作品において不在、あるいは隠蔽されているのは青春の残酷さ、暴力性と不可逆性である。徹底した弱肉強食と優勝劣敗、そうして決定される上下関係を受容するか集団を去るか、という択一の強制が作品からは見えてこない。時代の変化のため、と片づけることは簡単だが、作品群に点在する記念碑の色彩もまた変化しているという印象は拭えない。佐藤健、有村架純、二階堂ふみ、菅田将暉、岡田将生らが顔を揃えた『何者』(16)はその暗さを持つ衝撃作だったが、これは同じ就職活動を描いた『就職戦線異状なし』(91)の明るさと比較して考えたい。

映画『ライチ☆光クラブ』(16)の特殊性と魅力も、この方向からとらえられる。荒廃した工業都市の蛍光町で暮らす少年たちは秘密基地を共有する「光クラブ」を組織し、成員のひとりであるゼラ(古川雄輝)の絶対的な支配を受けている。少年たちは協力して巨大な人型のロボット「ライチ」を製作して町から美しい少女を拉致してくることを命じ、試行錯誤を経てセーラー服姿の少女・カノン(中条あやみ)を手に入れる。カノンは美の象徴として崇められるが、その身体を拭き髪を梳くことを命じられた雷蔵(松田凌)を除いてクラブの誰もが触れることを禁じられている。

少年たちは黒い制服、制帽に身を固めドイツ語の文句を愛唱する。硬派な趣味を全面に打ち出しながら、若さと美しさを保つことを望み、成熟と老いが訪れる前に死ぬべきである、という奇妙な信仰を持っている。物語の序盤、世界史の女性教師(内田慈)は、クラブの基地の存在を知ってしまったために捕えられ、少年たちに眼球を焼かれ、腹を裂かれるという、クラブで「処刑」と呼ばれる方法で殺される。ゼラはその衣服を剥ぎとって露わになった乳房、腹からこぼれた内臓の醜さに顔をしかめて見せ、自分たちはそれらを持たない、と述べて誇って見せる。ゼラを中心にクラブの者たちは、成長を否定するのではない、と唱えつつも成熟を否定する。だから性的な欲望の対象となる女性教師の乳房は憎悪され、カンナに欲情することは禁じられる。ジャイボ(間宮祥太朗)がゼラの股間に触れ、さらにはそこに顔を埋め、ゼラもそれを受け容れるのは、その代償行為のようでもあり、そのゆえにおさえがたい背徳感を帯びる。一方、大人たちを「処刑」し、少女を監禁するクラブの動きに、タミヤ(野村周平)は不満を募らせてゆく。

というのも、回想の場面で明らかになるように、まだ幼かったタミヤとダフ(柾木玲弥)、カネダ(藤原季節)の三人が、小学校の制服らしい半袖半ズボンの姿で広大な廃墟の空間を発見し、そこで三人が過ごすようになったことが「光クラブ」の始まりだったのだ。やがて眼鏡をかけたゼラが現れ、仲間になった。このゼラが、さらに加わった五人の仲間も合わせたクラブ全体に、どのように君臨するようになったか、その経緯は明らかにはならない。ただ映画の冒頭で幼少のゼラに、支配しなければ食われる、と語りかけた真っ赤でぬめりのある皮膚をした幻の怪物の声、また、チェス盤を挟んでタミヤに相対したとき駒を操作してすばやく勝利を決してのけたゼラの才気が手がかりである。ゼラはおそらく、自己を集団のために捧げ、友情や愛情を否定した連帯を求め、若さとその美しさを信頼する、という、冷徹で頑強な教条を巧みに創造し、それへの憧れを喚起することによって人心を得たのだろう。自らの情念や欲望を抑制し矯めることが正義であるという、未熟ゆえの錯覚が、語られずに底流する。そのためにニコ(池田純矢)は機械の製作という集団の目的を果たすべく、自らの右眼を自らの手で抉り取ることまでするのである。

ゼラの方針に不満を持つタミヤも、目の前でカネダが虐殺され、カノンに触れて自慰に耽るという禁忌を犯したダフの殺害を命じられると、苦悶しながらも彼の額に針を打ち込んでしまう。ところが、機械であるライチは少女を探し出すために自身は人間であるとインプットされていた。そのためにライチはカンナと恋愛的な関係をとりむすび、カンナを美しいまま殺すという趣旨で指令を受けて彼女を水死させた結果、錯乱する。次々にメンバーを殺し、最終的にはゼラもライチの手で殺され、クラブを見おろす位置の椅子の上で、内臓を露出させて絶命する。

青春の時間の中で、従前の関係が変容し破滅的な終末に向かってゆく、という趣向は、近くは『青い春』(02)の九條(松田龍平)と青木(新井浩文)や『ピンポン』(02)のペコ(窪塚洋介)とスマイル(ARATA)などに例がある。しかしたとえ『バトル・ロワイヤル』(00)のような凄惨な結果に至ったとしても、生き残った者にはすくなくとも未来が残されるのが通例であるのに、本作にはそれもない。『鬼畜大宴会』(98)で最後には全滅する若者たちが、拘留の制度や左翼運動を通じてかろうじて社会と接点を持っていたのとも異なる終着点である。少年たちは少年たちの幻想のなかで大人たちや成熟を否定し、自家中毒的にその成員を絶滅させてしまうのである。傷つけあって強くなるわけでもなく、ひとつひとつの言葉と行動が相互を絶対的に追いつめてゆく関係に、きわめて現代的な閉塞した気分がすけて見えた。

内藤瑛亮監督。2016年。

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