『マトリックス レザレクションズ』 "her"カウンターカルチャー
『マトリックス レザクションズ』予習のために『反逆の神話〔新版〕』を読んだ。結果的には良かった。
2000年代:カウンターカルチャー批判
ジョセフ・ヒース&アンドル・ポター『反逆の神話〔新版〕: 「反体制」はカネになる』(2021)の原版は2004年刊。有名なカウンターカルチャー政治批判本で、その精神を象徴する『マトリックス』(1999)はネガティブに紹介される((*1))。ここで俎上に上がるギー・ドゥボール/ジャン・ボードリヤール経由のカウンターカルチャー精神、その起点を大雑把に紹介すると「この社会/文化はかりそめにすぎない」「そのことに気づいて目醒めることが"大敵"である大衆社会への革命となる」みたいな感じ。ここで幻想を打ち破る手段は認知的不協和でよい。つまるところ"Take the red pill"。
『反逆の神話』は、消費主義や大衆社会そのものを敵として、地道な政治運動より文化政治に傾倒していった左派を批判した……わけだけど、世紀末の『マトリックス』から20年以上経って、状況はだいぶ変わった。
2010年代:右派の経典、左派のトランス寓話
有名な"Take the red pill"シーン
『反逆の神話』新版の序文で語られたように、2010年代に入ると、米国のカウンターカルチャー政治はいわゆるオルタナ右翼、反動保守サイドに色濃くなり、そこで『マトリックス』が聖典のように扱われるようになった。特に有名なのが、劇中台詞からスローガンとなった"Take the red pill"。発端とされるのは、2012年の反フェミニズムReddit投稿。マスメディアや民主党が正義のように流布するフェミニズムは男性を抑圧するものである、この真実に目覚めて抵抗運動を始めよう……的スタンス。その後、より広範になり「社会を征服するリベラルな社会正義のまやかしと欺瞞に気づき戦う、社会に抵抗するオルタナティブ」みたいなニュアンスになった風。
一方、文化左派界隈でも『マトリックス』シリーズへの見方は変容した。時代を象徴する名作はさまざまな見方をされるものだけど、今メジャーなのは「トランスジェンダー寓話」の側面。クリエイターであるウォシャウスキーズは、主に『マトリックス』三部作(1999-2003)のあと、メディアに暴かれるかたちでトランシジョンしていったMtFトランスジェンダーである。妹にあたるリリーは2020年に『マトリックス』がトランス暗喩であったこと、制作当時の企業/社会状況により描けなかった表現もあったことを認めている。そもそも、こうしたクリエイター側の情報なくとも、同シリーズはトランス的だと受容されていたりもしていた。下記翻訳noteでも指摘されてるように『反逆の神話』で批判されたような「この世はまやかし」的認知的不協和は、規範が根づよい社会で生じたジェンダー違和とも受け止められる。また、反動保守の標語となった"Red Pill"にしても「1990年代トランスジェンダーの人々に処方されていた赤色の薬」との類似性が指摘されやすい。
2020年代:カオスな『マトリックス』文化政治
ということで、世紀末から20年を経て『マトリックス』をとりまく文化政治とか大衆文化の状況は大きく変化した。たとえば、2020年、リリー・ウォシャウスキーは同作がトランス暗喩だと認めたと同時に"Take the red pill"を用いたイーロン・マスク、それに同調したトランプ大統領の娘イヴァンカ相手に「お前ら両方くだばれ」とFワードをぶつけて怒りを表明している。
そして翌年、姉ラナ・ウォシャウスキー単独監督の『マトリックス レザクションズ』が公開された。その内容により、右派サイドは「マトリックスがwokeになった」と不満を表明。この場合、日本語スラングに変換するなら「ポリコレ」映画になってしまった、的なニュアンス。これに対して、左派サイドが「最初からトランスジェンダー寓話であり社会正義の物語だ」と応戦する用のmemeが増産される状況に至っている。
『マトリックス レザレクションズ』
で、肝心の『レザクションズ』。ハリウッド大作的な刺激がつづくような仕上がりでもなかったので諸手をあげて薦めづらいけど、個人的には、変な映画としての好感を抱いた。シリーズを取り巻くカオスのみならず、偶然にも『反逆の神話』における批判にも対応しているようにも感じた。
以下ネタバレ。
まず今作が少なからず喚起した「wokeになった」不満。おそらく大きいのは前半のゲーム会社の描写。ビデオゲームクリエイターとして名声を馳せながら鬱々とする主人公は、自分に好意を寄せる社員にも鬱々とする。特に目立つのが「マトリックスは人生!」ノリの白人男性オタクで、反動保守とも一部近しい英語圏ゲーマーコミュニティのボーイクラブ/ミソジニー問題も関連してる感じ。リベラルが批判のやり玉にあげる「白人男性」および「男性オタク」をクソ野郎にするあたりが、米大衆文化に跋扈する「ポリコレしぐさ」的だ、みたいな怒りを一部で買った感じ。ただ個人的に、あれらはハリウッド的コードというより"私怨"に思える。「クリーンなリベラル倫理をやっておく」受動的かつ機械的な創作だったら、あそこまで執拗なウザさにはしないのではないか((*2))。むしろ、妹のリリーが叫んだような「お前らくたばれ!」ではないか。「この物語のことを"俺たちが所有する俺たちの物語"だなんてつゆほども思うな」くらいの"私怨"くさいからこそ、現行ステレオタイプにはハマらない変な映画な気がする。
中盤に入ると、ジェンダー表象が目立つようにも思える。というか今作、トリニティというキャラクターの重要性をきちんと示す試みかのように、彼女の存在が肝になっている。トリニティが「ゲームのキャラに自分を重ね合わせたことを夫に笑われた」と明かす情緒的シーンは、監督の体験なのかもしれない、とも思わせる。そして、最もエモーショナルなのが、彼女が勝手につけられたティファニーという名を否定する場面。旧作の「ミスター・アンダーソン」連呼においても指摘されていたように、トランスジェンダーの人々へのデッドネーミングへの反撃ともとれる((*3))。最期には、ミソジニックな相手をぶん殴り、空に虹をかける世界を築こうとする。無論、レインボーとはLGBTQの象徴。そして、第一作と同じRage Against The Machine"Wake Up"が流れる……原曲の男性ボーカルではなく、女性ボーカルにかわって。
観ているうちに、旧作制作時には企業/社会状況によって阻まれたというジェンダー比喩をはっきり打ち出す試みでもあったのではないかと思えてくる。前半の怒涛の私怨オーラも加味すると、これは「"お前たち"の物語」ではなく「"私"の物語」だ、くらいの根気を感じる。
さらに、全体のトーン、カウンターカルチャー的とされた世界観も変容を見せている。パンクな魂は健在だけど、作中にも登場する言葉「バイナリー」な形態ではない。たとえば今回、仮想現実の世界は、人々が生活をいとなむ陽の当たる場所のように映されている。機械にもさまざまな個性があり、人間と共生していたりする。つまり『反逆の神話』で批判された「主流社会はかりそめ」的な二元論から脱している。むしろノンバイナリー志向な映画((*4))。スタイリッシュさが削がれた演出、主演2人の皺を隠さず映すカメラワークも加わり「地に足つけてなんとか生きていこうとする中年映画」の感が漂う。両親と親友を立て続けに亡くした際に思いついた構成というだけあり、鑑賞後にはやさしさで包まれたような感覚になったほど。
上記、福山幸司氏のレビューに沿って考えると、『マトリックス』三部作を辛辣に批判した『反逆の神話』の一結論「資本主義には良きルールが必要」とも少し被ってくる。もちろん『レザクションズ』でもラナ・ウォシャウスキーは「パンク」と「愛」の人で、ヒースらに難色を示されたような精神はかたちをかえて健在している。だから、今作は、さまざまな表現を阻まれてきて、その作品がおそらくは望まぬかたちの経典化までされた彼女が、今現在の自身として『マトリックス』の魂はなんたるかを見せる……いわば"her"カウンターカルチャーの如き私的な物語だったのではないか。それなら、本来大衆需要に見合うよう調整されるハリウッド大作として変な映画になるのは当然だし、変な映画になるべきである。
脚注
*1 個人的に、刺激的で面白いけど刺激的ゆえに話半分な箇所もある本。概要は藤田直哉氏による新版書評に詳しい。"互いが互いに相手がマトリックスの中にいて自分は目覚めていると思っているというのはよくありがちなことだが、本書もまたそのような構造を用いている点は実に興味深い。だから、本書は多くの人々を触発したのだろう"。
*2 「ポリコレポイント」的な話だと、そもそも米大衆文化の「クリーンな/黒字になる倫理コード」は逐一刷新されるものなので、あえて2021年の映画に見るなら、そのマイルドな要領の良さ、商業的結果も含めて『フリー・ガイ』が象徴に思える
*3 "デッドネーミング(英: deadnaming)とは、使用する名前を変更したトランスジェンダーやノンバイナリーの人の、変更以前の出生時の名前や戸籍上の名前を本人の合意なく使う事" via Wiki。世界的に著名なウォシャウスキーズが幾度もこのデッドネーミング被害を受けたことは想像に難くない
*4 ちなみに、近年'nonbinary'といえばジェンダーアイデンティティを指すことが多い
よろこびます