記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

ネタバレに関する諸々の自論

ネタバレについて今まで思うところが色々あったので、全部ここに吐き出してみた。

本日6月6日のTwitterのトレンドで、「ネタバレ」が入っていたので見てみた。

なるほど、「ネタバレツイートになるものは配慮してやってくれ」とのこと。
ちょっと要項が多いのでここでは書きませんが、『本誌ネタバレツイートについてのお話』と銘打っているので気になった方は検索して見てみてください。


「本誌ネタバレ」について

まず、ネタバレの件、SNSで通用する概念じゃない気がする。

ネタバレっていうのは、目の前で話している人に「待ってそれ言わないで!」って言えるような関係において成立するものでは。
つまるところ、その人と「会話」している中でその話に触れそうになった時に「それまだ見てないから違う話しよ」と言う感じ。

バクマン。という作品の中で、亜城木夢叶(主人公たちのペンネーム)の新作原稿『REVERSI』が編集部ないで話題になる場面がある。そこで若手編集者がこれから見ようというときに先輩編集者が設定について説明し始める。若手編集者はそれに対して「ネタバレやめてくださいよ」と言う(単行本は友人に貸しているのでおおよそこんな感じってことで)。
これは、個人間のやり取りで「僕がこれから読むの分かってるでしょ? 言わないでくださいよ」と直接言える。

自分の話を聞く相手が特定でき、相手の状況が分かり、相手がネタバレしないでほしいか表明できかつそれを自分が受け取れる、という場になっている。

一方SNSは不特定多数の人と繋がれるオープンな場

公式に情報が出た時点でそれはオープンな情報だし、ファン同士で盛り上がるのがSNSの使い方だと思うます(最近SPY×FAMILY単行本で読んだ人間)

本誌で買う人は一話あたりに払う値段が単行本より高いわけで(私は目当てのものピンポイントで読むので単行本派)それだけ費やすことで安全に読む権利も一緒に買っているようなものかと(色々な作品を読む人もいますが、同作品で同じ話数読み進めるのにかかるコストだけを考えています)

そして本誌を買う人がいるから連載作品は続くのでは、とバクマン。を思い出しての感想。
本誌で応援してほしいというのが編集部の正直なところでは。いち早く感想を知るために「速報」でも順位を出していました(バクマン。では)

ネタバレを忌避する場合、SNS(特にTwitterなど繋がりに制限のないもの)の利用はあまりお勧めできない。上述の通り、感想を共有したり作り手側がそれを見たりする場としてオープンなSNSが存在するので、情報を絞りたい場合は相応しくない場になってしまう。
閉じたコミュニティを作るなど、違う場で楽しむ必要があると思う。


「本誌ネタバレ」について:まとめ

TwitterのようなオープンなSNSでは情報は出回るし感想を気軽に書くのも本分なので、ネタバレが嫌ならクローズドなコミュニティを作ろう


公式情報について

さて、ここからは今まで思っていたことに言及するパート。全然話題変わります。

Twitterでネタバレ等に関して話題になっているとよく見に行っていたのだが、ある時「仮面ライダー」に関してこんな一件を目にした。

仮面ライダーの新しい変身モデルのホビーが発売されると、放送中に挟まるCMで流れた。
しかし、そのモデルは次週出るもので、これはネタバレだ! 子供たちがかわいそうだ! と憤慨している人がいた。

さて、かつては仮面ライダー(よりも戦隊ヒーローの方が長かったが)を視聴していた(すぐにポケモンサンデーに乗り換えたけど)少年であった成人男性として、「それはどうかな?ニヤリ」と思うのである。

(以下、都合上断定形を使っているが、もちろん私の考えるものであり、例外があることは承知しているし、十人十色であることも理解している。)

正直、ネタバレということについて気にするようになるのは、ある程度大人になってからである。

子供のうちはそんなことあまり気にしない。
というのも、子供は目新しいものにワクワクするという楽しみ方を持っているからだ。

大人になると作品に関しての情報はすべて「ネタ」として消費する感覚を持つようになる。
大人にとって作品内の情報は作品を楽しむためのほぼ全てなのである。

ここに私の感じているモヤモヤがある。
作品対しての楽しみ方が、「(新出)情報を拾うこと」に終始してしまうような気がしてならないからである。それは作品を「消費する」という現代人的感覚が影響していると言えよう。

今回のツイート同様、以前Twitter内で話題になったこちらの記事に、「作品を消費する」現代の若者(20代前半の私が言うのもなんですが)の心理についての考察(?)が書かれている。


(正直なところこの記事を見る前から、)私の中で「消費される作品」という構図が見えてモヤモヤしていた。

ネタバレについて全ての先出し情報を拒むのは、情報を追うことを楽しみにしているから、それを作品外でされると楽しみが無くなる、という感情によるものではないかと考えている。

では、本家や公式が出す先出し情報はどうか。
当然これをネタバレと言って拒むのが先述の「仮面ライダーホビー事件」やその他の軋轢を生んでいるわけだが、公式が出している情報は作り手側の意図に他ならない。

つい先ほど紹介した記事を、もし暇があれば見てみてほしい。その中で「作品の時間、セリフのない間や、ゆっくりとした喋りなどにも作者の意図がある」というようなこと(勝手にまとめました)が書かれている。
作品には作り手の意図があり、(必ずしも受け手はその意図を汲み取る必要はないが、)受け手側は作り手の作り方自体に干渉するほどの大義名分は持ち合わせていない。

もちろん、意見や感想は全然ありだ。
私も作り手として、意見や感想として「タイトルでオチを言うのはやめてほしい」などの声が寄せられるのは歓迎したい(言い方によっては傷つくので見なかったことにします泣)

ただ、それは「すべき論」でないことは受け手側も理解しなければならない。
完全に情報の影も見せずに本編でいきなり出していって読者を驚かせることに喜びを見出す作者だっているはずだし、そういった形態の作品もあるはずだ。しかし、それは形態のひとつにすぎず、そうじゃない作品にはそうじゃないなりの意味がある。

作り手は意図してオチをタイトルにしているわけである。それは、オチが全てではなく、その過程を楽しんでほしい、という作り手の意図である。
得てして、消費型の受け手は「オチ」が究極のネタであると考えている傾向にある(と思われる)。つまり、オチを言うことが最大のネタバレになるわけだ。
しかし、どのような結末を迎えるかは形式的なものに過ぎず、その過程を楽しんでもらう作品もある。作者側が意図して過程を楽しんでもらおうとする場合、結末をタイトルにするのは戦略として選択されることも少なくない。

情報を追うことに終始せず、雰囲気や過程を楽しむという楽しみ方もあると知ってもらう方が、楽しめる作品の幅が広がると言える。

これが難しいことの理由は、雰囲気や過程というのが抽象的で感性に任せたものである、ということにある。
情報とは客観的で具体的だから、誰でも簡単に追うことができる。解説だってこぞって記事や動画が上げられ、自分では処理しきれない人でも簡単に掴むことができる。
しかし、雰囲気とは説明が難しいし、説明されたからといって分かるものでもない。
しかし、自分のフィーリングに合った作品なら眺めているだけで楽しいなんてこともあるはずだ。
もし自分の見てみる作品が情報慎重型(本編以外での情報出しを極力控えるタイプの作品)だとしたら安心して驚きに喜びを見出してほしいが、情報積極型(タイトル・サムネイル・次回予告や宣伝などで内容に関して触れていくスタイルの作品)だとしたら、「あ、これはネタを追うタイプじゃないな(過程や雰囲気を楽しもう)」と切り替えていただけると作品を楽しめると思う。


公式情報について:まとめ

公式で情報が提供されているものは、作者や製作側の意図によってそうされているので、それも作品の一部である(事前に情報が提供されることも作品のうち)ということを踏まえて楽しみ方を切り替えるといいかも


蛇足1:「面白い」と「楽しみ方」

ここで少し脱線させていただきたい。
せっかく「楽しみ方」について触れたので、私の思う「面白い」と「面白くない」の違いについても書き残しておく。

自分が「面白い」と感じる作品とそうでない作品は、まさに「楽しみ方」の違いによって生まれると思うのである。

たとえば、芥川賞を受賞した作品を読んだ人が「何も起こらないじゃんコレ、つまんな。東野圭吾読もう」という感想を持ったなら、完全にその作品に対しての期待楽しみ方が違ったと結論づけられる。
おそらくこの読者はサスペンスやミステリーが好きで、それこそ情報の出し引きや、物語の展開が好きなテーマパーク型の読者だったのだろう。だが、芥川賞を受賞する純文学というジャンルは、どちらかといえば美術館型の作品になる。ワクワク・ドキドキよりも、心や感性をチューニングして楽しむような作品が多いと思われる。つまり、ジェットコースターに乗りたかったのにルーブル美術館で最後の晩餐を見せられても、てんでピンとこないのと一緒なのだ。「違う、そうじゃない」という圧倒的なコレジャナイ感に陥り、「最悪の作品」という烙印を押すことで自分の立場を守ろうとする。

ただちょっとだけ待ってほしい。
相手と自分の価値観の違いを受け入れずに相手を一方的に非難するのは、正しいスタンスだろうか。
対人関係で考えると分かりやすいだろう。

友達と自分とで価値観の異なる場面に遭遇したとき、どんな対応を取るか?

そこで「お前は極悪人だ」と言ってしまえる人がいるなら、逆に清々しい。
そういったとき、ベターな対応としては「あ、そういう風に思うのね。僕は違うけど」と違いを理解して互いに譲歩し合うか、黙って受け流してその件には今後触れないかのどちらかでないかな、と私は思う。

作品についても同じである。
「あ、これは俺の価値観とは違うやつだな」と作品に対して自分の立ち位置の違いを表明する(誰かと感想を言い合う場面にはコレが有効?)か、「この作品は俺の趣味ではないな。多分俺の期待する楽しみ方には当てはまらないんだろう」と理解して離れるか。

間違っても作者の人格を否定したり、存在意義の否定や自分の価値観の押し付けをしてはいけない。
意見や感想を言うときはスマートに。
作者も人間(AIが作る時代が来るかもしれないけど、人間の創作活動はまだまだ続くと思う)なので、相手へのフォローもさりげなく入れつつ、「僕はこういうのが好きです。あなたの作風でこんな感じの作品も見てみたいので、次回作の機会があれば頭の片隅にでも置いてもらえたら嬉しいです! 面白い作品をありがとうございます」くらいの感じで言えば誰も傷つけないはずだ。
なんで意見言う側がこんなに作者に気を遣わなきゃいけないんだ?
それは、作者の作品を見に行っている時点で、よその家にお邪魔しているようなものだからだ。たとえ嫌いな内装やインテリアの家でも、その家ではカーテンを引き裂いたり電灯を叩き割ったりしないで、家主の顔を立てるだろう。家に招いた客がいきなり暴れ出したら怖いでしょう?

特にSNSの普及で名も顔も知らない相手と簡単に繋がれるようになったことで、軽い一言を相手にぶつけやすくなった。
しかし言葉とは思っている以上に重く鋭いもので、信頼関係も無しにあまり考えずに言葉をぶつけるのは危険なのである。
だからこそ、批判するときは言葉に気をつける。あなたに対して、批判を聞く側は信頼関係が築けていないからだ。

ずいぶん逸れてしまったが、このパートで言いたいのは

面白いとは自分の楽しみ方と一致していることであり、面白くないものは自分のスタンスを変える価値観の違いを理解するそっと離れるかのどれかをお勧めする。

ただし意見や批判してはいけないわけではなく、むしろ無批判による独りよがりも危険なので意見なども必要ではある。ただ言葉には気をつけよう。

ということである。


蛇足2:自分の好みと既存作品

脱線の2つ目。

先ほど、ネタバレに関して自分の楽しみ方と違う場合がある、と述べた。

「いやでも私は情報慎重型の作品を読みたいのに、バトルものでそういう作品ないのツラいんだけど」という人もいるだろう。

私も、自分の思うようにいかない作品というのに出会ってきた。

そこで「作者に文句言って変えさせてやる」となればモンスター読者になってしまう。

私が勧めたいのは、自分で作品を作る側になっみることだ。自分の望むものを好きに作るといい。
ネタバレ厳禁で、と考えているなら、そういう趣旨で作品を作ってみればいい。発表する時にも「コメントやSNS等でのネタバレはお控えください」とアナウンスすれば、これはネタバレ厳禁の作品なのだ、と認識される。

自分の理想の作品がないから自分で作る。
私が作り手側に回りたいと思った経緯でもあり、そうして作り手側増えることは悪いことではないと思っている。

既存の作品、作者を変えることはできない。
不服なら、自分で作った方が早い。
理想は自分の手で形にしてはどうだろうか。


なんやかんやで日付を超えてしまったが、閑話休題、最後のテーマに移ろう。


YouTubeコメント欄について

YouTubeを見ていて、コメント欄でのネタバレに強い反感を示す人が多くいる(文句を言う人が少なくない)のだが、これもネタバレに関しての話と同じである。

コメント欄は動画を見た後で感想やコメントを書く場であり、動画を見る前や視聴中の人が見に行って安心できるような場ではない。

視聴前や視聴中にコメントを見て、まだ自分が見ていないところのコメントを目にして憤るのはお門違いだ。

文句を言うべきは、YouTubeのシステムに対してであり、コメントを残した人ではないはずだ。個人の方が攻撃しやすいから直接殴り込みに行っているようにしか見えない。

YouTubeのシステムの改善もされつつある。
私が一度目にしたのは、コメントにタイムスタンプ(時間指定)がついているものを時間順に並べ替え、動画内でその時間が来るとコメントが流れる、というコメントの並べ替え機能だ。
これはその一度しか見ていないので試験的に一部導入されていたものだと思われるが、コメントを見ながら楽しみたいという人に対しても譲歩しているのが分かるだろう。

コメントで内容について触れないなんて寂しすぎるし、絶対に内容についての感想が欲しい。コメントは投稿者に向けてのもので、投稿者の利を第一に考えるべきであると思う。
視聴者は動画を一緒に楽しんだり盛り上げる意味でコメントを閲覧していると考え、ネタバレが嫌な人は一度動画の視聴に集中して全て観終える方が絶対に安全だ。

それでも事故的にコメントが見えてしまったならそれはYouTube側に対して意見すべきである。


YouTubeコメント欄について:まとめ

コメント欄は動画の内容についてのコメントを残す場。
コメントを書く側が内容に触れたり形式を気にする必要はない。
事故を防ぎたいなら、YouTubeに直接意見してシステムを変えてもらうべき。


まとめ

ネタバレというのは個人間に生まれるもので、SNS上ではむしろ感想が至るところにあるものである。

公式から提示される情報はネタバレではなく作品の形態の一環


2021.6.7;2:05  筒井

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?