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自由の限界点

タイトル: 自由の限界点:選択と成長のジレンマ
本文:
現代社会における選択の自由は、同時に選択肢の限界をもたらす。例えば、マインクラフトや格闘ゲームでは、参考になる動画や教材がなければ、行動に限界がある。私たちは、不快な環境を避け、快適な生活を選ぶ。しかし、その選択が成長の機会を制限するのではないかとの疑問が生まれる。

結婚や出産に関しても、多くの困難が伴う。辛い仕事を頑張るよりも、簡単な仕事をこなして趣味を楽しむ方が楽に思える。しかし、それは国の将来を考慮に入れず、個人の幸せを優先する選択だ。国のため、または労働のために犠牲になることは、間抜けな生き方に思えることもある。個人の幸せは、社会においても重要である。

結論として、私は自由を行使し、自堕落な生活を選ぶことにした。この選択を咎めることは誰にもできない。時が許すまで、このままの生活を続ける。

チャットGPT4による要約

 己で見える範囲でしか行動は決定できない。

 物事を自由に選ばせることにより、選択範囲の限界点。というものが必然生まれるであろうことを最近考えている。マインクラフトや格闘ゲームで考えてみるとわかりやすいだろう。何か参考になる動画や教材が無いと行えるべき行動に限界があるのだ。自らの自由を行使して不快な環境に身を置くことなどほぼほぼ無いだろう。そしてそのような環境では成長も無いのだろう。

 結婚や出産に関してもそうなのだろう。と最近はぼんやりと思う。ただ生きる事を目的とするのであれば、簡単な仕事をそれなりにこなして趣味を謳歌して生きていく方が辛い思いをして仕事を頑張るよりも良いように思える。

 もちろん頭の中では結婚して子供がいる生活というのも良いものである事は理解は出来る。だがそのための困難も多く、無理にそんな事に挑戦するのも億劫なものだ。(この億劫さを何故か「何もしていないのに愛されたがっている」などと言われる事もあるのは不思議な事だが)

 何も抱えずこのまま薄ぼんやりと生きていくことの方が楽に思えて仕方がない。国の将来を思えばそのような事を考えるのもおかしいのかもしれないが、国の将来を考えたところで見返りがあるようにも思えないので仕方がない。しかしてお題目を唱えながら目を瞑り歩くように、労働に心酔して勤しみ心身に異常を来すのも実に間抜けな生き方にも思える。国家や労働の奉仕対象である私個人が心身ともに健康であり、幸せであることも世の中においては重要な事に違いない。だからこれで良いのだ。うむうむ。

 志なくば成長など無いのだろう。だが愚行権というものも世の中には存在する。まさに私は自由を行使している。誰もが私の愚行を咎める事自体に眉根を寄せくれるのだ。時が許すまで、このまま自堕落な生活に身を委ねていようと思う。


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