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文章を世に出すこと。

初めて広く社会に自分の文章を公開したのは、中学1年生の時にノリで作ったブログだったと思う。そのときの私は思春期まっしぐら、ばちくそに病んでいた時期であったので大人になって大部分の記事を消した。とても大事な文章だけ残して、あとはたまに友人に向けて呟く用として活用した。思えばmixiとかTwitterとか他にいくらでも使えるツールはあったと思うのでが、ついぞ私にはそう言ったSNSを活用するスキル・センスが身につかなかったと思う。

中3のときには受験期だというのに新聞の投書欄に「電車内での女性の化粧について」というテーマの文章を送った。なぜか友人の父親がその文章が掲載されているのを見つけてとても喜んでくれたことを思い出す。その友人とは縁が切れてしまったが、大学時代に彼が担当している学生新聞の文章にアドバイスを求められたりした。それが、人に信頼されたようでとても嬉しかった。

高校で生徒会をしているときに、発信の場がないことに気づいて、生徒会報紙を作った。僕が原案企画、執筆編集を一年だけ担当し、次の年からは後輩に全てを任せてしまったが、輪転機を回す前に念入りに誤字脱字を校正したり、紙面レイアウトを考えるのがとても楽しかった。家に帰るのが億劫だったので、夜の7時まで編集作業をしていたこともあったのではなかったか。就職してすぐに広報紙の担当にしてもらったときは、高校の時にどうやって紙面を作ったのか何もかも忘れてしまってとても困った。

僕は編集者でもなければ、ライターでもない。今は会社の規則を直したり、役員会の議案の原案を作ったりしている。Wordの校閲機能とは仲良しだと一方的に思っている節がある。あまりにも自分の言葉を発信しない僕に、みかねて友達が短歌を進めてくれたり、作り方を教えてくれたり、とても良いものだから世に出すべきだと言ってくれる。世に出なくても、お金にならなくても、自分の言葉を世に出すということは生きることと同義なんだと最近になって気がついた。それがたとえ悲しい経験の弔いだとしても、誰かに伝えられなかった想いの残り滓のような言葉だったとしても、発言しないよりは、した方が遥かにいいのだ。
一度でも行った伝えるという経験が、次に自分が何かをするときに、きっと手助けしてくれるから。少し寂しさを伴うかもしれないけれど。

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