見出し画像

「希望の炎」

「希望の炎」

あまりにも歯痒く、悲しく、腹立たしく思ってしまうニュースが多いです。
新型コロナや政治経済関連、あるいは演者や著名人の訃報。

オリンピックも開催されるべきなのか、されないべきのか。
このトゲトゲと、ザラザラと、荒くれた心はいろいろものを否定的に捉えようとします。

そんな中、オリンピックの開会式の会場となる国立競技場で、水泳の池江選手が世界へ向けてメッセージを発信しました。
自身の闘病生活を振り返り、今も感染症と戦っている医療従事者に感謝を示したうえでこんな言葉を口にします。

今から1年後、オリンピックやパラリンピックができる世界になっていたらどんなに素敵だろう

それは本来の「スポーツを楽しむ」という心を思い出させてくれる、とても純粋で美しいものに思えました。
そして、新型コロナウイルスが広がる中でオリンピック開催に否定的な声があることに理解を示した上で

逆境からはい上がっていくときには、どうしても、希望の力が必要。希望が、遠くに輝いているからこそ、どんなに辛くても、前を向いて頑張れる
1年後のきょう、この場所で希望の炎が輝いていてほしい

布マスクの配布からお友達企業やらGOTOキャンペーンやら、自分なりに情報を集めて、何が正しいのか、何を、誰を信じれば良いのか。
情報収集のためにtwitterを眺めると、刺激的な言葉で罵倒し合いながら自身の主張が正しいと叫び合っている、それを目にするだけで気が滅入ります。
(ちなみになぜtwitter上では、知らない他人同士が絡む際に敬語を使わずにやり取りをするのでしょうか。現実で知らない人と面と向かって会話をするときはきっとその人たちも敬語を使うでしょうに)

拾い集めた情報をもとに自分の意見を持ったとしても、すぐに知らない情報に直面して「情報収集が足りなかった」とまた玉石混合の情報の雨嵐の中に飛び込んでボロボロになる。

何か、何かおかしくはないか。
ただ事実としての情報を知りたいだけなのに、こんなにも苦労するのか。
情報が溢れ返っているこのインターネット社会において、どう生きていけばいいのか、と絶望さえ感じてしまいます。

正直、私の中では国や政府、あるいは情報を伝えてくれるメディアというものが信頼できる存在ではなくなっています。
少なくとも信頼させてくれるような材料(情報)が私のところまで届いてきませんし見つかりません。

あれが無い、これが無い。
「無い無い尽くし」の先にあるのが希望であるはずがありません。
自分が何をしているわけでも「ない」、むしろ何も出来「ない」。

全く情け「ない」です。笑

そんな中、池江選手のメッセージを知りました。
池江選手の語る希望が、とてつもなく光り輝いて見えました。

人それぞれに「希望の炎」は違うけれど、きっとそれは誰にとっても生きる上でなくてはならないものです。
たとえ絶望しかみえなくても、どこかしら、何かしらに希望を見出さないと生きていけません。

そして私が池江選手の語る「希望そのもの」に希望を感じ取ったように、それそのものを持つことが自分の半径数メートルを(人によってはインターネット越しに全世界を)明るくする、そのことがとてもとても大切なことなのかもしれない、と思い至りました。

政治

話は変わりますが最近、こんな本を読みました。

画像1

原田マハさん著、「総理の夫」です。

タイトルの通り、内閣総理大臣の夫目線の小説です。
原田マハさんらしく、とても気持ちよく、颯爽と駆け抜けるような勢いのある小説で、元気が湧いてきます。

こんな総理大臣がいたらいいのにな、と思ってしまいます。

実は私、直近数回分、期間にして3年くらいでしょうか、選挙というものに行っていませんでした。
twitterで呟いたら叩かれそうですね。
ただこれには一応私なりに考えてのことでした。
正しいと思っているわけではありませんが、絶対に間違っていると思っているわけでもありません。
行かなかったのは、誰に投票すればいいのかわからなかったからです。
ひとつひとつの政策どうこうというよりも、私は「公正」であったり「誠実」であったり、嘘をつかないとか、悪いことをしないとか、そういう人に投票したいと思ったのです。
どの政策も表面だけ掬えば正しく感じてしまって、よくわからなかったから。
つまり青臭いことをいえば「本気でちゃんと政治活動をしてくれる人」に投票したかった。
でもそんなことがわかるはずもなく。

一方で、世の「とにかく選挙に行きましょう!」という流れも腑に落ちない部分があるのです。いまだに。
選挙が大事で、一票は誰にでも平等に与えられた政治参加の機会で、自分の暮らしを自分で責任を持って選ぶために投票をする、という理屈は理解できます。全くその通りだと思います。

でも政治のことがよくわからない人に対して「わからない人は、政策で自分が賛同する人に投票する」とか、「わからなくても政治参加が大切だから投票する」とかいうのはどうなんだろう、と疑問符がついてしまいます。
例えば掲げた公約は、必ず実現されるものではないでしょう。
実現しない(あるいはさせる気もない)聞こえの良い公約を掲げて票集めをする人もいるでしょう。
例えば、本当に国や地方政治を救うためにはどうしても必要だけれども、国民が嫌がるような政策をする人もいるでしょう(増税など)。
もしこういった人たちが同じ土俵で選挙を闘う場面があったとしたら、私は迷わず増税を掲げる人=本気で政治活動をする人に投票するでしょう。
しかし政治や社会経済などに詳しくない私のような人間が、「政策で自分が賛同する人に投票しよう」となったら、そうはならないはずです。
そうはなりたくないのです。それこそ無責任なのでは、と。
であれば、「投票に行かない」という選択をしよう。
それはそれで無投票というひとつの主張の形だ、と都合良く思うことにしました。

都知事選

しかし今回の都知事選は投票に行きました。
それぞれのホームページやニュース、候補者の討論会などで、情報を集めて投票しました。
投票に行った理由は、このコロナ期間で国の施政に明確にNOを主張したいと思ったから。
都知事選ですが、きっと都政は国政にも繋がると思ったので。
結果、小池都知事の再選に終わりました。
私は彼女には投票していないので、残念に思いました。
私が投票したのは宇都宮氏です。
理由は、「正直、公正」を第一に掲げていて、弁護士会の元会長で信頼できそう、そして政策面でも概ね賛同できそうだったから。
細かいことは気にしていません、というかわかりませんでした。
懸念点は73歳という高齢であることでしたが、「若いから」という理由で有能な人材を軽く見るのがナンセンスであるように、高齢であるからと色眼鏡で見るのも良くないと思いました。

投票した理由はそれ以上でも以下でもありません。
日本では政治に関してはタブー視されていますが、私はそんな大それた信条や宗教的な理由もない上にただの一般市民なので問題ないでしょう。
こういう選び方でいいのでしょうか。

池江選手の希望の話からだいぶ長々と書いてしまいました。
何が書きたかったかというと、「政治や社会に希望を持ちたい」という願望でした。笑
失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?