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運命と宿命と、ハチミツとクローバー

生きる意味が何にかかってるか──だと思う
それが「恋愛」の人間もいれば
好むと好まざるとにかかわらず
何か「やりとげねばならないモノ」を持って生まれてしまった人間もいる
どっちが正しいとかは無くて
みんなその瞬間はもう
本能にジャッジをゆだねるしかないんだろうな

羽海野チカ 2006 『ハチミツとクローバー 10』 chapter.63 集英社 より

 『ハチミツとクローバー』のラストが受け入れられないという感情は、どこまで行っても、人間関係を恋愛でしか、この物語を恋愛物語としてしか捉えらないことから生まれるのではないか、と思う。少女漫画だから仕方のないことかもしれないけれど、この物語において、はぐみの選んだ答えは、運命ではなく宿命、恋ではなく創作(描くこと)だった。

 この文章で述べる個人的な解釈について、少なくともフィクションにおいては運命が存在する前提で話を進める。
 恋愛の観点で、わたしの思う運命という言葉の意味に最も近い関係性は、『溺れるナイフ』の夏芽とコウだ。映画しか見ていないので本質的に理解しているとは言い難いし、深く語ることはできないけれど、彼らは圧倒的に運命で、運命であることに苦しんでいた。この運命こそが、『ハチミツとクローバー』における理花と原田だ。真山は理花の運命ではない。真山はそれを理解していたからこそ理花に近づけなかったし、沢山悩み、立ち止まり、葛藤して、支えあえるまでに時間がかかった。
 そして恐らく、はぐみと森田も運命なのだ。狂おしいほどに。本能を、衝動をわかりあえるのは、同じ世界を見つめあえるのは、互いしかいない。けれど、運命だからこそ離れなければならなかったし、運命だからこそ、互いが恋しあうよりももっと巨大な、果たさなければならない宿命を負っていることを理解していた。宿命とは、この物語で言う才能のことで、描くこと、創りつづけることだ。chapter.61において、森田はその宿命からはぐみとともに逃げようとした。投げ出すことで宿命の苦しみから自分とはぐみを守ろうとした。宿命からの心中。けれどはぐみは宿命のほうを選んだ。だからはぐみは修司を選んだのだ。
 はぐみにとっての修司は、馨にとっての城山、理花にとっての真山とほとんど同じだ。生きて使命を果たすためのサポーターで、愛ゆえに自分に身を捧げてくれてしまう相手で、だからこそはぐみも理花も彼らを頼ることをためらい、はぐみは「修ちゃんの人生を私にください」という言葉を選んだ。

 わたしは先生と生徒、大人と子供、のような恋物語が苦手だ。守るべき相手を大切にできない大人のほうにがっかりしてしまうし、男女は恋でなくても愛しあえると信じている。しかしながら、わたしが修司とはぐみの出した答えに違和感を覚えないのは、修司からはぐみに向けられる「大好き」が、恋愛ではないし性愛ではないと感じられるからだ。親から子への、無償の愛と同じような、竹本の恋とは違う、愛。
 
 そして、『ハチミツとクローバー』は、恋や運命に縛られない、生きるために必要不可欠な相手を人生のパートナーに選ぶことを肯定する物語だ。今のわたしは、そう思う。

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