トマトジュースは血液になるのだろうか

青春コンプレックスの話をしたせいか、学歴コンプレックスの話を思い出してしまいました。GMARCHが滑り止めと言うのは、本当にそういう世界があって、そういう価値観の教育をされて、そういう常識が植え付けられる、そういう環境があるからなのです。例えば少し頭の良い人が、通っていた高校の話をするとき(YouTube)そういう価値観のまま話をすると、コメントで「学歴コンプ乙」と言われる訳ですが、価値観が固定されてしまうのもしょうがないと思えるほどに、高校の「頑張れ」押し付けは凄まじいし、書いているだけで胃が痛くなってきました。50分後に家を出たいけれど、まだブランチは終わっていないし、生憎わたしは癖毛が酷いので危うさしかありません。そして1ミリも焦っていないところに思慮の浅さを感じます。ミスiDはミスiDになってみなければわからない現実というものがありまして、本当に何者にもなれるわけでは無いのですが、ミスiDだけを勝ち抜いて(わざとこの言葉を使う)行くには戦略は結構役に立っていたのではないでしょうか。ただ、終了後に小林さんの好みが黒髪ショートだと聞いて、たまたま黒髪ショートだった2020年5月の自分ラッキーと思うこともありますし、わたしには言わずと知れた「オキニになる才能」がありますので説得力はありません。「死にたい」に対していいねする違和感とかを、なんか凄く感じていて、わたし的には確実にいいねでは無いし、死なないで欲しいって思うことは我儘だけど事実でもあって。それを無作為に、不用意に、人に伝えるのは傷つけることなのでどうかと思うのですが。アメイジングミスiD、11人のうち5人も個人賞を受賞されていて、アメイジングなのに劣等感!は否めず、これを言うのは良くないかなと思っていたので言いませんでした。アメイジングの子は基本的にみんな好きです。絡みがあるわけではないけれど、言うなれば尊敬だと。詩的文章を書くのが苦手で、語彙力やら知識やらが圧倒的に足りておらず厨二病を拗らせています。例えば、八月下旬の蒸し暑い夏の終わりを表す言葉を知らないので、類語を調べて当てはめたりだとか。しっくりくるものを見つけられずに別の言葉に変えてしまうこともしばしばで、その度に勉強不足を痛感するのです。これは反抗期ですが、もし仮にスマートフォンで小説を読んでいたところで、大人の皆さんは「今の子はずっとスマホか」と仰るでしょう。ああ、視野が狭くて結構だと思います。若者はいつでも嫌われ者ですから。わたしには、大人の垣間見える冷酷さが怖くてたまりません。大人になるのが怖いのは、大人が人一倍怖いからだと思います。そう、だからわたしは優等生だったのかもしれません。その冷酷さは男の子と接するときに感じる冷酷さと似ていて、見透かされてしまうのです。取り繕いも愛想笑いも不愉快極まりないのでしょう。大人と話すと、いくら優しい人でも不意に感じ取れる冷酷さから、社会が甘くないことがわかります。尊敬の意が無いこともわかっているのだと思います。どうしようも無く怖いのです。わたしもそちら側になるのですか。ならそれはいつですか。ドラキュラモチーフのアニメなどではトマトジュースが血液の代わりだったりとか、血液をトマトジュースと偽っていたりだとか、そのような描写がよく見受けられます。わたしにとってトマトジュースはその印象が強く、何度飲んでも血液のことを思い出してしまうのです。ならば、トマトジュースが血液の代替品になってくれないものかと思う訳ですがまあ無理な話というか何を言っているんだという感じです。巡り巡って摂取したトマトジュース自体は血液の栄養分になっているのではないかと考えた辺りでB型特有の思考回路を自覚しやめました。B型に誇りを持っていて血液型による性格測定は信用しておりませんが、B型は悪く言われ過ぎているとは思っています。AもOもABも決して悪印象を受ける結果ではないのに、B型だけ何故こうも我儘だとか自己中心的だとか悪口を言われなければならないのでしょうか。はあ。これがわたしの一日の思考(生活或いは学業を除いたもの)であり、所謂めんどくさいムーブなのですが、いかがでしたか。これらのような思考をわかりやすく、またわたしの理想系として書き表しているのがnoteという訳です。普段は文章にするという段階をしっかりと踏んでいるのですが、こちらは脳又は脊髄から直接文字起こししているに過ぎず、読めたものではありません。読み返したくもありませんし。以上長話。

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