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"天気の子"の感想。新海誠のオンナの気持ちになるですよ。

落合さんの記事を見て、"くすぐられる"のとこにすごい共感した。

新海誠には、そういう力がある。
なんだか、くすぐられて書きたくなる。

というわけで、はじめてのnote。しばしお付き合いください。
(*宇多丸さんの映画評に多分な影響を受けています。)

「あんたいま、夢を見ているね?」

新海誠を一言で紹介するなら、カタカナの<セカイ系>を得意とするアニメ監督だ。これまで、秒速、言の葉など多くのカルト的作品を手掛けてきた新海誠は、一定数の熱狂的なファンをつけながら、ミニシアターを主戦場としてきた。その流れが大きく変わったのは、言うまでもなく前作”君の名は。”だ。

“君の名は。”は、その美麗なビジュアルに加え、男女2人の青春譚であり、一夏の冒険であり、およそ夏の角川映画に必須の要素を全て兼ね備えながら、一般受けはしないのではないかと勝手に決めつけていた、新海誠の作家性を失わずに、文字通りのメガヒットを記録したモンスター映画である。

そう、”君の名は。”が、げに恐ろしいのは、新海誠の作家性を失わずにあれだけのメガヒットを記録したことだ。

新海誠の18番であり、冒頭から何度か文字にしている<セカイ系>は、客観的に見て世間受けが悪いと感じる。
それは想像するに、主人公たちの感情にノレないからだろう。

セカイのあり方を変えてまで、彼らにとっての幸せを実現させる様は、見ていて賛否分かれるのもさもありなんだ。

しかし"君の名は。"は、その特異なジャンル映画の型を守りながら広く受け入れられるフォーマットを作ってみせた。

これは恐るべきチューニング力による成功だと思う。

新海誠の作家性の中に元来含まれていたポップさ、キャッチーさの一面を抽出し、新海誠が得意とする連作中編作品、RADWIMPSの曲を使ってMVの体をとった音楽劇のフォーマット、さらには実績のあるキャラクターデザイナー、有名アニメーターの数々…
“君の名は。”の成功は、これらをパッケージングし、絶妙なチューニングを施してみせたプロデューサー川村元気その人による成功と言ってもいい。

川村元気が”君の名は。”にどれほどの貢献を見せたかは、当時の彼に対するインタビュー記事の多さからもうかがい知れる。

そして公開当時”君の名は。”に感じたジェネリックな触り心地は、恐らく間違いではなかったんだと思う。

新海誠が新海誠を俯瞰して、そのポップな一面を増幅し再構築してみせたのだ。

“君の名は。”は、まさに白昼夢のような映像ドラッグだった。


 「100%の晴れ女!?」

“君の名は。”は<セカイ系>だ。
新海誠がその作家性を存分に発揮できる、魔法のフォーマットで<セカイ系>をやりきった。

これをジャンル<セカイ系>の拡張と呼びたい。

新海誠そして川村元気は、”君の名は。”をもって、<セカイ系>が夏の角川映画枠を十二分に担えることを証明してみせた。

ここで、話を”天気の子”に移す。

“天気の子”を見て最初の感想は
「これなんてギャルゲ??」
だった。

露骨な条件分岐イベントの数々に、サブイベントをダイジェストでわーっと見せてくれるあの感じも、帆高のひとり語りも、
ADVゲームだ。

特に今回、台詞にしてもシチュエーションにしても
オタクが好きそうすぎる

新海誠みが強い。

その一方で今作
川村元気はほぼ沈黙している。

新海誠と二人でインタビューに答える形式のものは、いくつか見るが
前作の時と比べて、作品に関して直接あれこれ言っているものが少ない

これは、川村元気にしかできない仕事を”君の名は。”でほとんどやりきったからではないだろうか

魔法のフォーマットは、今作”天気の子”でもいい意味で使い回されているし
美麗な美術、素晴らしいアニメーション、見知ったキャラクターデザインなど、第一印象に安心感があるのは、間違いなく前作”君の名は。”で獲得した資産だろう

そして、今回もキャスティングがめちゃくちゃいい
これも川村元気の仕事かはわからないが

主人公役の醍醐虎太郎はじめ、森七菜、小栗旬もよかったし、本田翼さんは最高だった。

そしてなんつっても、やっぱり”天気の子”の天気表現が最高なんだから、もうこの映画は5億点でいい。

雲、雨、空、天使の梯子、曇り空の街に晴れ間が差し込み街全体を覆っていくとこなんか、圧倒される

そして都会の描写
前作”君の名は。”でも、都会のことを扱っていたが、それは光の一面をのみ抽出していた。
あまりにも眩しく希望に満ちた概念としての都会。
ファンタジーと言ってもいいくらいだ

それが、今作”天気の子”では、テーマから美術から、強く意図された汚し、weatheringが目を惹く。

新海誠は今作の着想が、天気からスタートしていると言っていた。
多くの人が天気のことを考えない日はないだろうということ
刻一刻と変化する空模様は見ていて飽きない。

天気をテーマにするとなると、最近の異常気象が思いつく
夏場にやたら雨が降ったり、めちゃくちゃ暑かったりする。

このあたりから、今っぽいテーマにつながって行く

異常気象、みなが思ってはいるものの口に出さない社会についてのこと、貧困、絶対的な正しさだけが正義の社会,,,

そう、前作”君の名は。”と今作”天気の子”が大きく違うのは、この社会の存在の大きさだ


**「僕たちは、大丈夫だ。」

**

“君の名は。”がまさにそうだったように、カタカナで書かれる<セカイ系>は、ファンタジー要素が強く結末もぶっ飛んでいる事が多い。

今作”天気の子”の結末もまた、ぶっ飛んでいるし、世界とふたりを天秤にかけてふたりを取るあたり、お手本のような<セカイ系>と言える。
しかし”天気の子”がこれまでの<セカイ系>と違うのは、セカイ対ふたりの構図を取りながらも、ふたりとセカイ、そして社会とを深く結びつけてみせた点にある。

“天気の子”ラストで帆高が言うように、
「あの日ぼくたちは世界のあり方を決定的に変えしまったんだ。」し、帆高は陽菜にとっての大丈夫になりたいと願ったのだ。

ぼくたちと世界を天秤にかけ、ぼくたちを選んだのだから、そこに至るプロセスは当然ぼくたち対世界の対立構造をとっているはずだ。
しかし、”天気の子”はそうではない。

ここが、"天気の子"のおもしろいところだ。

"君の名は。"で主人公瀧くんとヒロインの三葉がたたかった相手はまさにセカイとか運命とか、そんなやつだった。

対して
“天気の子”で主人公帆高とヒロイン陽菜さんがたたかっていたのはセカイ、そして決して正しくはないこの世界だ。

陽菜さんは、いつから自分の体が透明になっていくことに気づいていたのだろう。
少なくとも、帆高がこのことを知るのは物語も佳境を迎えたあのシーンだ。

陽菜さんを救いたい。
もう一度会いたいんだ。

家出をして東京で陽菜さんと出会い、屋上にたどり着く怒涛のラストまで、
ここに至るまで、主人公帆高が戦っていたのはセカイではなく、正しさを強制する社会、世界だった

ふたりと社会の対立構造からはじまり、表面上はそのままに裏でその目的をすり替えることで
最後にはふたりとセカイの対立構造になっているのだ。

セカイ系+社会

それが今作”天気の子”であり、<セカイ系>の革新。
これを<世界系>と呼びたい。

新海誠は、今作を指して結末は賛否両論あると言った。

“天気の子”を観た多くの人が、おそらく三年後の東京を見て「はぁー???」となるだろう。疑問とか、憤りとか、置いてけぼり感とか、いろんな感情で一度突き放されるだろう。

でも、ふたりが願った結末だ。

それでふたりは大丈夫なのだ。
ならばそれは、いい結末だ。

“天気の子”は一度否定し逆説することで、完成する。


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