vlog 志賀玲太先生の「病葉」を拝見して、改めて自分について。
勝手ながら、初めてnoteの記事についての感想を書かせていただく。
志賀先生はこの記事を書いたとき、怖くはなかったのだろうか。
自分の内面をこんなにもはっきりと写る硝子のように書き連ねることができること、私はできるだけ自分の内面だとか本音だとかを直接言うことのできない人間だからなのか、どう表現すれば良いのか分からないが、ぱっと感じたのは「羨ましい」という感情だった。
自分には○○があって、それを改善するために○○していること、という表面上では見えない部分が書けること。
自分の好き・嫌いに加えた「苦しみ」だとかはっきりと表示できないもやもやをどうして書けるのだろうか。きっと自分の中の自分をきちんと理解出来ているから書けるのだろう。
私はそんなに頭の良くない人間でもあるため、昔の作品と絡ませながら記事を書ききることができるのも、ああ、自分にはできないなと感じる部分も。
私は中学校3年生の時からQuizKnockが大好きだ。
もちろん志賀先生のことを、XでもQuizKnockでも拝見していて、自分らしさをめいっぱい出している印象はあったものの、内面的にはどんな人なのだろうかはあまり想像したことは無かった。
とても綺麗で、触れたら消えそうなオーラを纏っているように自分が感じていたのだと思う。
これからも無理せずに、大事にゆっくりと活動していってほしいと思った。
さて、話を変えて今回は
自分のことについて改めて書こうと思う。
自分は「自閉症スペクトラム(ASD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」のグレーゾーンの診断を受けている。
決してこの2つのせいにはしたくはないのだけれど今まで友好関係を構築することがずっと苦手だ。今も、きっとそうかもしれない。
学校という存在も正直嘘をついて「楽しい」と言っていたし、修学旅行、運動会に加えて調理実習や普段の体育の授業などいわゆる「集団で集まる何か」というものを強制されることに酷い苦痛を覚えた記憶がある。
だから静かな保健室や、カウンセリングのための教室、大好きな先生のいた美術準備室が大好きだった。
小さな空間から見える景色と、優しい先生の声がよりどころだった。
美術担当兼画家のM先生は今も元気なのだろうか。
日常でもその苦しさは途絶えない。
例えば、怒鳴る声や子どもの突き刺すような甲高い声や電車の走り去る音みたいに、やけに「大きさ」を隠し切ることの出来ない音がどうにも苦手なままだ。耳栓やイヤホンは持ち物には必須で、忘れただけで一日中落ち込んでしまう。
人は誰しも「大事なもの」が存在するのだから、たとえ自分が絶対に持ち歩かないものだとしても受け入れる社会にはならないのだろうかと考えている。
光や音が少しでもあると眠りにつけないし、柔らかいマットレスや決まった質感の毛布じゃないと身体が痛い。
だから旅は好きなのに日が経つにつれて疲労が蓄積するため1泊2日で基本限界に達してしまう。
服もできるだけ柔らかなものがいいし、講義の椅子も全部クッション付きがいいのになと感じたり。
特定の匂いに耐えられないほど気持ち悪くなったり。
4歳のときに買ってもらったぬいぐるみがないと寝付けなかったり。
環境が少しでも違ってしまえば集中力というものを一瞬で失ってしまうし、
大学の講義は時々半分の時間で限界が来て、あとは上の空になって一人で反省したり。
自分の発達障害のことを理解してくださっているにも関わらず教授のニーズに応えられない自分に自暴自棄になったり(成績はぼろぼろです)。
「こんな世界で生きるなら死んだ方がましだ」と「死にたい」と初めて思った小学生のころから何回思ったのだろう。
本当に自分はわがままな人間なのである。
言い換えれば「こだわりが強い」ことなのだけれど、全て叶うわけでは無いので生きててしんどいと感じることは常にあるものだ。
実は、志賀先生と同じようにメンタルクリニックにも通って「いた」。
過去のことである。大学に進学したことを期に自分は通院を辞めたのである。
私はまだ社会人ではなく、学生。
親からの手助けをまだもらっている。
地元ではない大学に進学して、一人暮らしをさせてもらって。仕送りだってしてもらっているのに、「病院にお世話になる」という選択をとるということが怖くなったのかもしれない。
お金が、足りないのだ。
ただ、大学に進学してから体の不調がより明確になったことや学生相談室で病院の紹介を受けたこと。
どんなに今「快」という状態でも、いつそれが終わるかは分からないし、助けの手段のひとつに入れても損というものはないというふうに捉えることができたことから、今はアルバイトを頑張って、通院代や薬代を貯めて、通いなおしをする予定だ(大学に申請すれば援助してくれるかどうかわからないからだ)。
でも、自分は正直薬を飲んでも効かなかった。
おそらく志賀先生と同じ薬を服用していた記憶があるのだが、長期的に服用しても出てくるのは眠気と胃の痛みと食欲不振だけで、気分が戻ることもなかったし、自分が欲しいのは薬の効果でもなく、「温もり」だったり「わかってほしい」という気持ちを分かってもらうことだということに気づいた。
メンタルクリニックに通っていたとき、病院経由で高いお金を支払って発達検査を受けて、結果が判明して母と心理士さんと自分で面談をしたとき、このような言葉をかけてくださったことを覚えているので書かせていただく。
「お母さん、あなたが日常的にできていたとしてもお子さんにとっては高いハードルがあるものがあって、これ(検査結果)はお子さんのできるできないことをきちんと指針として示してくれているんです。理解することは確かに難しいかもしれませんが、知ることだけでも大切なんですよ。」
高校3年生の、1月。こころがはじめてほどけた瞬間だった。
もとから優しかった母の表情が、少し眉が下がっていたがより優しくなったような気がした。
あれから一年弱が経ち、今は楽しい生活を送れているのが今の私。
作家という夢を追いかけて作品を日々書きながら、サークル・バイト・学業と忙しい日々を送っているけれど、充実という言葉がぴったりの毎日。
ただ、いつかありえない決断をしてふっと消えるのかもしれない。
そうならないように今をもがいて生きている。
最後に、私の好きな歌詞を引用して終わろうと思う。
「何にも知らないふりして 今日を生きよう 今日を生きよう」
この世のすべて、知りたいことだけ知っていけば、きっと明日も何とかなるのだろうな。
とまた、明日を迎える。
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