ヨーグルト殺人事件

その日は雨が降っていた。八月下旬。
蒸し暑さが雨によって少しましになった昼下がりに、東京の下町を一人の女がうつむき加減で歩いている。

家からほど近いドラッグストアに飼い猫のえさを買いに行った帰り、露原ゆうは言いようのない胸騒ぎをおぼえた。
彼女は買った餌を両手で抱きかかえ、その胸騒ぎの意味を思索していた。
元来勘が良かった彼女は、親族が亡くなるときや、事故にあう時、ひいては彼女の友人の結婚が破談になったときさえも何かが胸に詰まったような感覚を覚えた。
彼女自身もその感覚が一体何を意味しているかはその時にならないとわからない。
が、しかし今回もまた同じように胸が詰まる感覚と、きっとこれから何か良くないことが起こるという予感だけを確かに感じていた。
決まって悪いことが起こるという予感だけが手元にあり、それが何だかわかる由もないというのは人を不安に陥れ、露原もまた不安と戦っていた。
しかし、今回の胸騒ぎはこれまでとは少し違った感覚があった。
胸の奥が熱くなるような感覚である。
それはまるで会えない恋人に恋い焦がれているような、何かを切望する衝動めいた熱だった。
彼女は普段とは違う自分の身体に戸惑いながら自宅への歩みを進めていた。

赤茶の煉瓦の古臭い築二十年ほどのアパートが露原の自宅である。
その正面には車が二台ようやく通れるだけの道路があり、その向こうに細い路地がある。
その路地はいつも薄暗く、電球が一つだけ光っており、人が二人並ぶことのできる程度の狭い路地のため、普段そこに立ち入る人はいない。

露原は自宅の階段を上がり、外廊下を通って自分の部屋の前につき鍵を出して鍵穴に差し込んだ。
そして扉を開き部屋に入り、扉を閉めようと振り返ったとき、路地がふと目に入った。
彼女は動きを止める。
路地にはいつもの電球が揺れているのだが、そのほんの一歩くらい下がったところに一人の男がびしょぬれで立っていたのだ。
黒髪で、白い少し大きめのサイズのTシャツを着て、下はジーパンをはいている男だ。
前髪は目元にかかっているが、その奥の瞳と目があった。
彼は攻撃性もなく、ただ老人が公園で遊ぶこどもを眺めているようなまなざしで、彼女が扉から部屋に入るところを見つめていたのである。
彼女は驚いたが、不思議と不安感を感じず、同時に雨に濡れた子猫を見つけたような心持になり傘を持って彼のところへ走っていった。

彼女がアパートの階段を下る間に彼は路地から歩み出ていた。
路地には隣接する建物の屋根があるから、そこで雨宿りをしていたのだろうと露原は思案した。

「あの、良かったらこれ、差し上げますので使ってください。」

露原は、彼が思いのほか階段の外廊下から見たときよりも背が高く、自分と歳がそう遠くなく、また近くで見るとなお森閑としている瞳に見惚れ、その瞬間彼を異性として強く意識した。
そして彼が路地で自分のことを見ていたということに喜びと恥じらいさえおぼえ、彼女は手で髪を整え姿勢を正した。

「ありがとう。」

男は無表情で彼女にそうぶっきらぼうに礼を言い、彼女の次の行動をうかがった。

「じゃあ、お気をつけて。」

緊張していることが相手に知られないうちにと、露原はあえてぶっきらぼうにそう言い残し、小走りでアパートの階段を駆け上がる。
開けっ放しにしていた扉を開けて扉を再び閉めようとしたとき、下に見る道路に彼の姿はもうなかった。


次の日もそのまた次の日も、露原の頭から彼の瞳が離れることはなかった。
一重瞼だが決して小さくない黒い瞳。
必要最低限の光だけ反射しあとはすべて吸収してしまうようなささやかな輝きだけをたたえた瞳。
彼女は、夕暮れ時に見た、寺の隅で静かに佇む黒曜石でできた墓を思い出した。

続く

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