階段を昇り見つめたタワマンと同じ高さの花火のおまもり


土曜日の夜、ニッポン放送といえばずっと聴いていた「魂ラジ(オールナイトニッポン サタデースペシャル福山雅治 魂のラジオ)」だった。魂ラジを最後まで聴いて仕舞えば自然とその後の番組も情報として入ってくる。存在自体は認識していたが、初めてオードリーのオールナイトニッポンをリアルタイムで最後まで聴いたのは、いわゆる「春日事件」後のお説教回だった記憶がある。

それからサタデースペシャルのパーソナリティーが年月の変遷とともに入れ替わっていくなかも毎週のようにオードリーのラジオは生活とともに続いていた。

続くことはおまもりだと思う。まだ読み切っていない本に栞をはさむこと、仕事の休憩が終わる間際にストリーミングで聴いていた曲を一時停止してアプリを終了しないで鞄のなかにしまうこと、止めたradikoのタイムシフト再生画面、イベントのグッズを買うこと、良かった映画のパンフレットを大事にとっておくこと。

夜中に聴くラジオは、晴れた日の夜に山間の開けた場所で星を見るみたいなことだと思っている。何処か遠くにいる特定の誰かに向かって大声を張り上げるのではなく、そこにただ座って近い距離で話をする。その距離感は、何かを照らすものでもなく無理に発光しておらず、聴くこちらが暗くなったときにその明るさに気づいて導かれるものなのだ。目を開けたまま両手で顔を覆い、少しだけ指の隙間を広げたら差し込んでくる光。LEDライトでもない自然のもの、血潮の色をすかしたような淡い色調の、最初からそこにあったもの。そういう生活の延長線上にあるものにげらげら笑ったり身につまされたりする。

東京ドームでオードリーがあまりにも毎週通りのラジオをやったものだから気が付いたけど、でっかい花火って飛び級の運とか裏技じゃなくて、0を1にした先で毎日積み上げた成果なのだ。気付いたら大きな花火を同じ高さで見ているような感覚があった。2009年に日本武道館で同じくオールナイトニッポンのイベントを行ったオードリーは最後にイタコ漫才をした。本人達も「あれを越える漫才できないかも」と話していたが、東京ドームで最後に披露した新たな漫才で彼らはイタコ漫才とは別の山の頂上に登り詰めたのだ。次元が異なるくだらなさと馬鹿馬鹿しさとほんのちょっとのエモーショナルをもってラジオ生活の延長線上にある花火が上がり、残像と残響は頭に住みついた。それは生活の中にある光を見失ってしまったときも、変わらぬ口調で指の隙間をそっとこじ開けてそれに気付かせてくれる消えない淡いオレンジ混じりのおまもりとなった。


オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム、ちょうど若林(特大敬略称)のトークゾーンで隣に座っていたひと回り上のリトルトゥースが話に相槌打ったり普通に目の前の景色と会話するようにぼやいていた。あれは16万人のそれを体現していたし、毎日夜中にラジオを聴く自分自身を鏡に写した姿そのものだったのだ。


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