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プレゼンの可能性とライブ感

📚椎葉村での図書紹介ライブ@ローカル5G実証事業

今日、椎葉村図書館「ぶん文Bun」に来てくれたお子さんが「Zoomの図書紹介すごく良かったです」と褒めてくれた。

「Zoomの図書紹介」ってどういう活動かというと、椎葉村が昨年度行ったローカル5G実証事業のなかで村内の小学校・中学校と連携したオンライン授業をやろうという取り組みがあって、その中で小宮山剛が「クリエイティブ司書」として毎週おすすめ本を喋りまくる(みんなの質問にも応える)というワイワイガヤガヤな取り組みなのである。

スクリーンショット (4)

スクリーンショット (4)

・・・↑なんだか楽しくなさそうな顔をしているけれど、これは図書紹介タイムが始まる前なのでローテンションなだけでありまして、本番はそりゃもう阿鼻叫…わいわいがやがや楽しい時が流れていたのであります。

(「それって5Gじゃなくてもできるんじゃない?」というツッコみは置いといて…いや本当に置いておいてくださいマジで置いとけください)

📚プレゼンは「覚える」ものと指導されて

ちなみに、冒頭のお子さんの褒め言葉は続く。そして僕はそこに大きな違和感をおぼえることになる。

お子さん(ちなみに小学生)は「Zoomの図書紹介すごく良かったです。全部覚えていて凄かったです」と言ったのだ。

一人の小学生の発言をそう重要視することもないじゃないかと言われそうだけれど、僕はここに大きな教育慣習の負が詰まっているきょうな気がする。この小学生さんにとって、あぁしてZoomで喋る行為は「覚える」ものなのだ。

思えば僕が小学生のときも、人前で喋ることはすべて「覚える」ものだった。全校集会での発表、運動会での選手宣誓、朝の会での意見表明、などなど・・・。便宜上こうした「人前でなにかを表明し語ること」をおしなべて「プレゼン」と呼称することにすると、僕は小さい頃からずっと「プレゼンは頑張って覚えるものだよ。覚えきれなかったら、先に用意したメモを読んでもいいよ」と教わり続けていた気がする。

プレゼンは覚えるもの。そういう認識が義務教育のなかにあるのだという確信が、今日僕が褒められた「全部覚えていて凄かったです」の一言によって強められる。

そりゃそうだ。あるいは公の場もありうるのに、子どもが自由な発想で変なことを言い出したらたまらない。事前に大人の確認のもと作った(作らせた)原稿を読ませるのが最も「成功」しやすいし安全で、かえって手間がかからない。

📚原稿を読むことで失われるもの

原稿をただ読み上げることは、安全で逸脱のない楽なやり方だ。というか、小さい頃からずっとそうしてきた場合、他のやり方を知らないという人もいるのかもしれない。

しかしながら僕は、プレゼンにおいて原稿を読み上げるということを決してしない(人生のある時点からしないようになった)。なぜなら、原稿をただ読み上げるだけというプレゼンでは、話し手にとっても聴き手にとっても失われるものがあまりに大きいからだ。

僕は何かのプレゼンをするとき、喋りながら聴き手の反応を窺い、へぇとかほぉとかいう感嘆が多いときにはそこの副次的情報を多めに話す。これはオンラインの場でも同じで、だからこそカメラをオンにしてうんうんと頷いたり「どういうこと?」というお顔を見せながら聞いてくれる方の存在はありがたい。単に「頑張れます!」という精神論ではなくて、聴衆の反応はコンテンツそのものを左右するのだ。(頷きや相槌の効果については言語学的なアプローチを試みたいが、これは雑感なので端折る)

何より、オンラインであれリアルであれプレゼンの場は生きている。時間配分が変われば話の要所も変わってくるし、聴衆の属性が想定と違ったら言語的・表情的コミュニケーションのとり方も変わってくる。

・・・こうした生きた対応が、原稿の読み上げプレゼンだと全くできない。あるいはすべてを記憶してそのまま喋ろうという姿勢・認識のままプレゼンをするのならば、元々話そうとしていた内容が瓦解してパニック状態に陥ってしまうだろう。

既定のかたちをそのままお届けしてしまおうというプレゼンでは聴き手の反応や当日の変化を受け容れらない。すなわちライブ感がないのだ。今日は一人の小学生さんの言葉から「そういえば、そういうプレゼンをしてしまっている人が多いなぁ」と再認識した。何といっても、総理大臣の原稿よみプレゼン(記者会見とか)が批判されるくらいである(笑)

学校教育のいたるところで「覚えましょう」「読みましょう」が唱えられ続けているけれど「だからプレゼンが下手な人が多いんじゃないの?」という気がしてならない。公・・・多数の人が目にする場で子ども達に自由な話をしてもらう(「おもしろかった」「よかった」以外の所感を伝える力をつける)機会を増やしてあげられると良いのではないだろうか。

📚プレゼンの質≒個人の経験によるところが大きい

じゃあ小宮山はいつから原稿を持たずにプレゼンをするようになったのかといえば、高校時代に福岡サンパレスのコンサートホールで話をする機会があったからだ。

福岡サンパレスといえば有名ミュージシャンがコンサートをひらくような大きなホールだけれど、僕たちの母校東福岡高等学校はここを貸し切って3年生を送り出す会「予餞会」を毎年行っていた(最近も開催されているようですね)。

その予餞会の代表挨拶を僕がするというわけだけれど、それは僕が生徒会長を務めていたからだ。↓当時の高校案内パンフレットの表紙から↓

東福岡 パンフ

もちろんそれまで僕は「覚えましょう」「読みましょう」教育に染まっていたからきちんと原稿なんて用意しちゃっていたのだけれど、舞台袖に立ち原稿を握りしめながら思ったのだ。

こんな大きな舞台で話すのに、この紙は小さすぎる。

…そして僕は原稿を内ポケットにしまったまま舞台へと歩きだす。学ランなので、舞台上で脱ぎ始めでもしないかぎり原稿を取り出すことはできない。

まぶしいスポット・ライトのせいで観客席はまったく見えなかった。自分一人だけが光の中で踊っているような感覚に、この舞台だからこそ出てくる言葉を語りたいと思った。マイクを通じて届けられる音声は、僕のパルスそのもので…。

…このライブ感こそが、僕のプレゼン原点である。1,000人ほどはいようかという生徒たちの息遣いやざわめきに対峙して初めて紡がれる言葉は、原稿と全く違うものだった。それは当初用意していた文字数の半分くらいの長さだったけれど、伝えられた価値は何倍にもなっていただろうと思う。

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幸いにも僕は生徒会長という経験を通して、しかもサンパレスという舞台でこのライブ感を味わうことができた。他にも体育部が強豪ぞろい(僕の代では甲子園出場、花園優勝、サッカー全国大会上位進出、春高バレーもたしか・・・などなど)だったから、テレビ・新聞の取材対応や公の場でのあいさつも経験できた。成人に達する前にこうしてライブ感の大切さをかみしめることができたのは大きい。

一方で、義務教育→受験勉強という教育体制の中ではなかなか「覚えましょう」「読みましょう」から脱却することができないのではないだろうか。結局のところそのままでは、決められたことを決められた範囲で行うことしかできない、ブレークスルーのない人生を送ることになってしまう。

今後図書館を通じて、こういう「決められていないプレゼンをする場」をつくることができればと思う。ある意味ではローカル5G実証事業も、筋書きのない質疑応答などのやり取りをできたことにおいては成功だったと言えるかもしれない。しかしそれくらいの対話なら日常で当然のように発生するだとうし、もっと質と強度のあるプレゼンの場を提供できないかと考えている。

もっと子どもさんたち自信のことばを引き出し、ことばとことばが聴き手の反応と重なって変わっていくライブ感あるプレゼンの喜びを伝えられたらと思う。そうすることがきっと、教育や次世代リーダーの育成につながっていくはずだ。