箱
小春と睦夫さんの交際は続きました。
交際が始まって、4年が経ったのです。
ですが、小春と睦夫さんの交際は、平穏なものとはいきませんでした。
小春の恐怖症です。
症状の改善の進展が、ありませんでした。
そんな自分を責めてしまう、小春。
交際がはじまった最初の1、2年は、恐怖症を克服できる希望をもっていました。
小春も、睦夫さんも。
ですが、小春は一向に、睦夫さんと触れあうことが、できるようにはなりません。
もうこれ以上は、よくならないのではないのか。
小春は、完全に自信を失っていました。
「小春が僕にさわって」
そう言って、睦夫さんは自分の手を、小春の前に出してくれることが、あったそうです。
ですが小春は、触れられるだけでなく、自分から触ることもできませんでした。
それでも睦夫さんは「気にしなくていいよ」と、言ってくれたそうです。
小春はなぜ手に触れなかったのか、おしえてくれました。
「手を出してもらっても、いつまでも睦夫さんにふれる勇気がでない……
もし、出してくれた手へ触ったときに、発作が出てしまったら……
私と触れあうことを、睦夫さんに諦めさせてしまうんじゃないかって怖くなって、私からもさわることができない」
小春は、ほんとうは睦夫さんにふれたいのです。
私の前で、小春が苦しさを打ち明けたこともあります。
「睦夫さんに……
あの人にね、抱きしめて欲しくて、胸がね、ぎゅっーとっしめつけられて、涙があふれてくる……
なのにそれでも、触れあうのが怖い……
矛盾したふたつの気持ちに引き裂かれて、このまま私はどうかしてしまうんじゃないかって……
そんな風に思うときがあるの」
小春は、触れられない辛さを知っています。
なのでそのぶん、小春は心を痛めていました。
自分を触れさせることができずに、睦夫さんに悪いことをしている、と。
『こんな自分にふさわしくない』
睦夫さんがいい人であるほど、その思いが、小春につのりました。
「ほかの娘とつきあったほうがいいと思う」
「なんで」
「睦夫さんに、ちゃんと幸せになってほしいの」
「ちゃんと幸せだよ」
「うそだよ」
「うそじゃないよ」
「四年も経ってるのに、手をつなぐこともできてないのにっ」
「気にしなくていいよ」
「……もう諦めてるんでしょ」
「……僕が好きなのは、小春だから」
「……」
「小春と一緒にいたいんだ」
「最近、調子悪くて、私一緒にいれないことも多いじゃんっ」
「別れたくないんだっ」
睦夫さんは少し大きな声を出してしまったのです。
睦夫さんが、思わず大きな声になってしまったのは、理由があります。
小春がそのような話をするのは、はじめてではありません。
その時期の小春は、会うたびにそんな話をしていたそうです。
そのつど睦夫さんが否定しても、小春は聞く耳をもってくれません。
睦夫さんは、そんな風に小春に思わせてしまう自分のふがいなさに、いきどおっていたのです。
それで、思わず大きな声になってしまったのでした。
小春は、おびえてしまいました。
小春の父親は、大きな声を出す人ではなかったそうです。
なので、この大きな声におびえてしまうのは、父親のせいではないと……
借金の取り立ての人から受けた心の傷だと、小春は言います。
小春から話を聞いて、私はフォローしました。
「睦夫さんは本当に小春じゃなきゃダメなんだよ。ほかのひとじゃダメなんだよ」
「いまはそう思ってるだけ。でも、ほかの娘とつきあったらちゃんと幸せになれる」
小春はききませんでした。
自分と別れたほうがいいと、本気で思っています。
自分が、睦夫さんを苦しめてると思いこんでいました。
でも小春は、なにも言わずに睦夫さんとまったく会わない、ということはしていません。
それはどこかで、小春が睦夫さんと別れたくないとも思っているからだと、私は感じました。
小春はその気持ちを押しこめて、睦夫さんの幸せを願っていたのだと……
「別れたい」と言って、睦夫さんを試しているだけなら、どれだけよかったか。
続き
English ver.
朗読
朗読 YouTube ver.
朗読 koneko ver.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?