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やる気のモデル

「やる気が出ない」という悩みへ、僕はいつもこう答える。

「何かするのにやる気なんていらない」

僕は、やる気を“後付けの産物”だと思っている。

“やる気がでた”というエネルギーが満ちた状態があって、そのやる気というエネルギーを消費して何か事をなす、というモデルが幻想だと。


やる気の出てる状態とは、脳が活発化している状態であると思う。

それは行為中に起こった状態であって、行為前に起こる状態ではない。

脳が動いてから手が動くのではなくて、手を動かすと脳が動き出す。

しかし、何かをするのに「やる気が出ていないと、やれない」という思い込みは、溢れている。

僕はそれを帰属錯誤のせいだと睨んでいる。


Aという作業をするとき、過去にAをこなしたときの再現をしようとする。

そして過去にAをしたときに、やる気が出ていたイメージがある。

しかしそれは、Aをする前にやる気が出ていて取りかかった訳ではない。

やっているうちに出た、やる気だったのだ。

にもかかわらず、やる気(脳の活性化)が、Aをこなせれた要因だと帰属錯誤してしまう。

たとえ脳の活性が起こらずに、だらだら手を動かし続けてたとしても終わっていたのにだ。

そして、やる気が出るまで手をつけないという、不毛な事態がおこる。

脳の活性化(やる気の出ている状態)は行為以前にはない。

だから、なにもせず待っていても来るはずもないものだ。

来るはずのもないものを待つ無駄な時間を過ごす。

そんな中で「やる気の出ない自分はダメなやつだ」と、自分を責めてしまう。

始める前に“やる気”がないのは当たり前なのに。

自責する(自己肯定感が低い)と“何もしたくないとい”う気持ちが強くなる。

そして、手をつけるきっかけはさらに遠退く。

以後、負のスパイラル。


やる気が出ることを何かをなすことの条件だと帰属錯誤してしまうのとは別に、「やる気がない=ダメ」という構図はどこから来るのだろう。

「やる気がないやつは帰れ」のような、怒らこられ方をされたことはないだろうか?

「やる気がない=ダメ」は教育の場で刷り込まれる機会が多いと思う。

自分が教える立場だとして、明らかにやる気のない態度のやつがいたら気にくわない。

さらには、集中しといないと怪我に繋がることを教える場面だってある。

気にくわない態度や、怪我のリスクの篩に、やる気がない=ダメというレトリックは使われる。

これは、致し方ないことでもあると思う。


思えば、体を動かさずに、脳だけを働かせるなんて事態が起こったのは、サピエンスの歴史で考えると、ほんのわずかなことだ。

やる気は、やっていたら出てくるもの。

だから“とりあえずやり始めてしまうこと” “手をつけてしまうこと”を習慣化させることが肝要だ。

習慣とは、意思の力にたよらなくてもできることである。

やる気の出ている状態は“常態”ではない。

常態で出来ないものは、人生と言う
長期で運用し続けるのは困難だ。

歯を磨くように、お風呂に入るように、それに手をつけよう。


以下おまけ。

やる気は行為とセットとだと、書いてきたわけだけど、単品のやる気もある。

だけどそれは必ずしも、何かをなすことに繋がるとは限らない。

例えば、僕なんかは「ホドロフスキーのDUNE」というドキュメンタリー映画をみて、ホドロフスキーの熱い語りをきくとやる気がわいてくる。



しかし、僕の場合、なにもしないでやる気がでると、やる気が出たことに満足して、なにもせずに終わることが多い。

もちろん、それをきっかけに手を動かす人もいるだろう。

だけど、僕にとって、単品のやる気はアクメみたいなものだ。


ほかにも、やる気については、

行為自体が報酬になるエンドルフィン型
他者承認が報酬になるのドーパミン型

の話や、

“怒り”と“やる気”は同じホルモンの別名で、両方ともノルアドレナリン由来。

だから、成功者にテストステロンが高く怒りっぽい人が多い。

みたいな持ち弾があるけれど、それはまた別の機会がありましたら。

あと、この記事のタイトルは「鬼滅の刃」のイントネーションでお願いします。

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