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この世界に生きる私たちへ。映画『オッペンハイマー』が現代に鳴らす警鐘について。

【『オッペンハイマー』/クリストファー・ノーラン監督】

「20世紀で最も重要な人物」の一人とされる理論物理学者、ロバート・オッペンハイマー。彼は、第二次世界大戦中のアメリカで、原子爆弾の秘密開発計画であるマンハッタン計画の科学部門を指揮し、「原子爆弾の父」として歴史にその名を刻んだ。今作は、原爆、つまり、世界の全てを破壊し得る悍ましい力を生み出し、アメリカでの科学的権威を手にした後、原爆がもたらした被害の大きさを知り葛藤と恐怖に駆られ、その後、原爆よりもさらに脅威的な力を持つ水爆の開発に反対、そして最終的に、時代の混迷の流れの中で、その地位を追われたオッペンハイマーの人生を描いた伝記映画である。

なぜ、ノーラン監督は、オッペンハイマーの人生を映画化しようと考えたのだろうか。その手掛かりは、前作『TENET』の中にあった。科学の発展によってもたらされる脅威というテーマは、『TENET』から引き継がれたものであり、振り返れば、『TENET』の劇中には「マンハッタン計画を詳しく知ってる?」という台詞が登場していた。この直接的な言及から、オッペンハイマーの存在は、『TENET』の世界における終末思想に影響を与えていたことが想像できる。

『TENET』の撮影終了後の打ち上げパーティーで、ニール役を演じたロバート・パティンソンは、ノーラン監督に、第二次世界大戦後にオッペンハイマーが行った演説集をプレゼントとして贈った。その演説は、オッペンハイマーが、戦後になってから原子力に対する疑念を深めていることを明かしたもので、ノーラン監督は、その演説集を読んだ時の印象を、「読んでいて気味が悪くなる。」「自らが解き放ったものに反論しているからだ。そんな代物、どうやってコントロールするつもりなんだ?」と振り返っている。

こうしたきっかけから、ノーラン監督は次第にオッペンハイマーの矛盾と葛藤に満ちた人生への興味を深めていき、『TENET』の劇場公開の翌年、2021年10月、2005年に出版されたカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンによる伝記『オッペンハイマー』(原題:American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)を映画化することを発表した。そして、2023年7月、ノーラン監督にとって約3年ぶりとなる新作『オッペンハイマー』が完成。今作は世界興収10億ドルに迫る特大ヒットを記録し、2024年3月に開催された第96回アカデミー賞では、作品賞を含む7部門を受賞した。なお、ノーラン監督は、長いキャリアの中で映画史に輝く数々の作品を生み出してきたが、彼がオスカーを受賞したのは今回が初となった。


今作は、公開前から示唆されていたように、「原子爆弾の父」としてのオッペンハイマーの人生を讃え上げるような作品では決してない。ナチス・ドイツを倒すという大義のために開発した原発が、結果的に、広島と長崎へと投下されてしまった。戦争を終結させるための手段と心から信じた原発は、結局、非人道的な大量殺戮兵器にすぎなかった。原爆製造を成功させたオッペンハイマーは瞬く間に時の人となるが、その栄光の裏にあるのは、想像を絶する悲劇と大いなる矛盾であり、戦後、オッペンハイマーは、贖罪意識に蝕まれ、また、当時加速していた赤狩りの流れの中でやがて公職を追放され、その地位を奪われていく。あらゆる伝記映画は、たとえどれだけ史実に忠実であったとしても、最後には監督の目線や切り取り方によってそのメッセージの方向性や性質が規定される。その意味で言えば、今作を観れば、ノーラン監督がオッペンハイマーの人生を極めて批判的に見据えていることは明らかだ。

この映画の中盤のハイライトが、人類史上初めてプルトニウム原子爆弾が使用されたトリニティ実験のシーンだ。それは、人類が第二の火を手にした瞬間であり、恐ろしいことに、その実験は一定のリスクを認めた上で進められた。爆弾のボタンを押した時、連鎖反応が起きて大気を焼き尽くし、そのまま地球全体を破壊してしまうかもしれない。オッペンハイマーは、その恐怖を「恐ろしい可能性」と名付けた。(なお、「恐ろしい可能性」は、前作『TENET』でも用いられていたキーワードである。)それが起きる可能性がたとえどれだけ小さいものであったとしても、それを完全に排除することができる数学的・理論的根拠は存在しなかった。オッペンハイマーをはじめとしたマンハッタン計画に参加した科学者たちは、それを理解した上で爆弾のボタンを押したのだ。

ノーラン監督は、トリニティ実験のシーンについて次のように語っている。

これは人類史上における特別な瞬間だ。私は観客をその部屋に連れ込み、その会話が交わされる時に、ボタンが押される時に、立ち会ってもらいたかった。考えてみれば、実に信じがたい瞬間なんだ。それがどれほど危険なことだったか。科学と技術と知性の結合、私たちが「想像」できることと、抽象的なアイディアを現実世界にもたらし、具体的な現実として、そしてそれが導く結果の全てと関わることとの間の対立だ。

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「実に信じがたい」という言葉遣いに、ノーラン監督のオッペンハイマーに対する批判的な目線が表れている。今作(におけるオッペンハイマーの視点で進むカラーパート「核分裂」)で徹底されているのは、オッペンハイマーの物語を主観的に語ることであり、観客を一人の人物の人生や経験の中に導き入れ、体験してもらうことは、まさにノーラン作品に共通する構造にして真髄であると言える。今作の「実に信じがたい」瞬間に立ち会う経験は極めてスリリングなものであり、観る前からその実験の結果を分かっていたとしても、ボタンが押される瞬間には、その冷徹に張り詰めた緊張感に思わず息を呑んでしまう。

そして興味深いのは、今作は、オッペンハイマーの人生の全てを描いたものではなく、いくつかの重要な史実の描写が意図的に省かれていることだ。例えば、史実としては、オッペンハイマーの公職追放が決まった2日後、アインシュタインを含むプリンストン高等研究所の教授陣29名がオッペンハイマーを支持する声明を発表した記録が残っているが、その場面は今作の中ではフォーカスされていない。また、今作の全米公開の前年にあたる2022年12月16日、米エネルギー省のグランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は、「偏見に基づく不公正な手続きだった」と発表し、オッペンハイマーにソ連のスパイ容疑の罪を被せて資格を剥奪したことを公的に謝罪したが、その事実も今作の中では描かれていない。そうした、オッペンハイマーの名誉回復に関する史実を意図的にオミットしている点に、ノーラン監督のオッペンハイマーに対する痛切な批判的目線を改めて強く感じるし、そしてそこには、オッペンハイマーへの同情の余地を一切残さないという強い意志が滲んでいる。


このように、今作が明確な反核のメッセージを掲げていることは明らかであり、また、何よりも重要なのは、この物語は決して単なる過去を描いたものではないということだ。

この世界に生きる私たちへ

これは、3月25日に開催された今作の「TOKYOプレミア」で、上映前のスクリーンに映し出されていた言葉だ。トリニティ実験が成功したあの日、あの瞬間から、世界は不可逆的に変わってしまった。全世界の生命を脅かす核の恐怖は、今も消えていない。むしろ、その恐怖と脅威は、かつてよりも大きく切実なものとして私たちが生きる世界全体を覆っている。今、海の向こうで起こっていることに目を向ければ、私たちが今も核の時代の中で生きていることを実感せざるを得ない。今もなおとどまることのない、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザに対するジェノサイド攻撃。2023年11月には、イスラエルの閣僚から、ガザへの核兵器使用は「選択肢の一つ」であるという発言が飛び出した。発言は非難を集め、その閣僚は職務停止処分となったが、常に核の使用が「選択肢の一つ」になり得る世界に私たちは生きていることに変わりはない。

今作の主演を務めたキリアン・マーフィー、また、ノーラン監督は、この映画が現代において果たす意義について次のように語っている。

キリアン・マーフィー
これは歴史の教訓ではない。説教でも治療でもない。「これが、あなたがこの映画から学ぶべきことです」なんて言いはしない。でもこの映画を見て、今日の世界で起きていることの中に同じようなことを見つけ、それを考え、警戒の目で見ることができるようになるというのは間違いありません。思考を刺激し、あなたを試すというのは映画作りの最も重要な役割だし、僕が思うにクリスは、それを興味深い、そして挑発的なやり方でもってやり続けているのです。

『オッペンハイマー』公式パンフレット

クリストファー・ノーラン
彼(オッペンハイマー)の物語は私たち全員に関わるものです。彼の行動は、良かれ悪しかれ、私たちの世界を規定し、私たちはその中で生き続けている。だからこそ、彼の物語をできるだけ大きなスクリーンにかけ、できるだけ多くの人に観てもらうことが、この映画の望むことなのです。

『オッペンハイマー』公式パンフレット

私たちが生きる今の時代・世界と響き合う、極めて普遍的な反核映画。映画『オッペンハイマー』は、とても果てしない射程を誇る作品であり、これから先いくつもの時代を超えて、人類に核(および、非人道的・無差別的な暴力全般)への警鐘を鳴らし続けていくのだろう。ノーラン監督が語っているように、一人でも多くの観客が今作を観ることにこそ意味があり、今作が観客一人ひとりに授ける、在るべき未来について思考を巡らせ想像するきっかけは、混迷を極め続ける世界を照らす数少ない希望の火となり得る。

私たちは、人間を人間たらしめるヒューマニティーを手放さないでいられるだろうか。今もなお、誰かの生が無慈悲な暴力によって否定され続けている現実に対して、目を背けることなく抗っていけるだろうか。これから先の未来の行方を問われているのは、他でもない私たち観客一人ひとりであり、改めて、今作が今この時代において果たす役割の大きさと切実さを感じる。そして、いつかこの映画がその役割を終える未来が訪れることを望む。



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